18

 配達用自転車の前籠を、車に引っ掛けられた。幸い殆どの商品に問題はなかった。ただ何部かは汚れてしまってそのまま配達する訳にいかなかった。補充に販売店に戻らなければならなかったし、事故の処理にも手間取って、普段より配達が遅れた。
 配達区域には、深夜と言っても良い時間帯の新聞を待ち望んでいる客は居ない様で、今まで遅配の謗りを受けた事は無い。今朝も何とかなりそうだ。有り難い事だ。

 その日最後の配達は302号室と決めている。家主が高熱で倒れたのを発見した日から続く習慣だ。
 ドアポストに新聞を入れようとしたその時、302号室のドアが開いた。

「おはよう」
 いつもより幾分ラフな格好の家主に挨拶された。
「お、はよう、…随分早いな?」
「いつもこんなもんだ。ただ、今朝は新聞が遅かった」
「あー、悪い、ちょっとトラブルがあって…待たせたか?」
「いや、大丈夫だ。こうして待ってたら、会えるのかな、って思ってよ」

 何て言えば良いんだ、こういう時は。
 俺に会いたくて、俺を待っててくれた?
 何て言えば良いか、分からない。

 俺は最後の新聞を家主に手渡した。
 受け取った家主の手と、触れる。
「手、冷たいんだな」
 触れた手は、そのままに。
「ああ、でも、菓子作るには都合が良いんだよ。手が熱いと、生地がだれちまうし」
「へえ」
 どういう事かは分からない。けれど家主が手を引かない事の方が、気になる。それがどういう事かも分からない。

「ゾロの手は、あったかいな。外で働いてるゾロの手の方が、家ん中に居る俺の手よりあったかいってのは、変な感じだ」
 冷たい手に、俺の体温が移っていく。
「今は、菓子、作んねぇんだろ?」
「あ? ああ。まあな?」
 手に触る事も許すのか。こんなちょっとの事で浮き立つ気持ちが、煩わしい。
「だったら…」
 空いていた方の手も、家主の手に沿わせる。
「こうしてあっためても、問題ねぇな?」
 新聞を持った家主の手。それを包む俺の手。拒まない、家主。理由が知りたくて、瞳を見る。視線がぶつかる。家主の、サンジの視線は、どんな意味だ?

 ぐう

 腹が鳴った。有り得ない。こんな時に鳴るなんて。

「腹減ってんの?」
「…ああ、いつもなら、飯食ってる時間だ」
「配達は、うちで最後?」
「ああ」
「俺、これから朝飯なんだけど。食べてく?」
「え」
「俺はパティシエだけど、普通の料理も美味いぜ?」
「…お前の分が、なくならないか?」
「ははっ、お前、どんだけ食べる気だよ? 大丈夫。二人分は優にある」
「ホントに、良いのか?」
「ん? 良いって言ってんだろ? 勿論、ゾロの都合が悪いんなら…」
「いや、いや、食う! あー、ちょっくら店に電話して来る」

 ひしゃげた自転車は店に戻してあるし、集金した訳でも、残した新聞がある訳でもない。俺が今すぐ店に帰る必要は無い筈だ。302号室のドアから少し離れて電話した。
「腹が減ったんで、飯食ってから帰ります」
 それだけ言って、切る。
 電話を取った所長の娘が何か言った気もするが、気にしない。
 このチャンスは、逃したくない。
 …チャンス? 何の? …ああ、そうか。あの美味い菓子を作る奴の作った飯を食うチャンスだ。そうだ。他に有り得ない。
20121123


19

 302号室のドアを開けて「お邪魔します」と声をかける。「おー、入れー」と家主の暢気な声が聞こえる。美味そうな匂いがする。喉が鳴った。

 テーブルの上にあったのは、完璧な朝食だった。
 ご飯。みそ汁。具はわかめと豆腐。焼鮭。だし巻き卵。ほうれん草のごま和え。白菜の漬物には鷹の爪の輪切りが乗っている。どれもこれも美味かった。更には食後に番茶。お茶にも美味い不味いがあるのだと知った。

 かなりの勢いで掻き込んだ気恥ずかしさをごまかしたくて、口を開いた。
「何となく、パン食だと思ってた」
「ああ、髪がこんなんだしな。外人さんだと思ったんだろ?」
 家主が金髪を一房掴んで言った。
「違うのか?」
「まあ、生まれは北欧だそうだけど、育ったのは日本だ」
「へぇ…」
 違和感を感じる言い回しだが、それについてよく考える前に家主が喋る。
「朝はしっかり食べたいからな。それに、職場が甘い匂いだろ? オーブンもフル稼働だから結構暑いし、汗もかく。だから朝は塩分多めだ」
 家主の声は、心地良い。つい聴いてしまう。

「他に、食べさせる奴が居たんじゃないか?」
 こないだの爺さんとか。そうじゃなくても、他に、誰か。
 おかしく聞こえない様に、細心の注意を払って発声した。
「居ねえよ? 何で?」
 家主の声は、何の含みもない様に感じられてほっとした。それでも。
「鮭。二枚焼いたんだろ?」
 そもそも自分一人で食べる食事をこんな立派に整える事さえ俺には考えられない。ましてやきっちり二人分の用意だ。
「ああ、一枚焼くのも二枚焼くのも手間は一緒だし。大体多めに作る。鮭はあれだな、余ったら解して鮭フレークにしとく。弁当にして持ってく事もあるし」
「やっぱりお前の分、俺が食っちまったんじゃねえか」
「良いんだよ。食わせたかったんだ」
 食わせたかった? 俺に? どうしてそんな事を言うんだ。そんな穏やかな顔で。

 時間にして三十分程。それでも、朝、出勤前の三十分は長居だろう。
「美味かった。ごちそうさま。長居して悪かったな」
「いや、ちっとも。もし、良かったら…」
 もし、良かったら?
「また、食いに来いよ」
 また。食いに。

 何て言えば良いんだ、こういう時は。
 とても有り難い申し出だから、「おう」と答えた。
 けれど…本当に食いに来ても良いのか?

 店に戻ると、所長の娘に詰め寄られた。
「こんな時間に何処で朝ごはん食べたのよ? ひょっとして、お客様に御馳走になったんじゃないでしょうね?」

 ——お客様の家に上がり込んではいけません。

「違う、お客様じゃねぇ。…トモダチ、だ」
 お客様ではあるけれど、ただの客ではない、筈だ。もう、友達と呼んでも良い筈だ。
 けれどどういう訳か、友達と言うのに躊躇した。友達、ではしっくりこない。でも、他に言い様が無いから、『トモダチ』と、カタカナで言った。
 こいつにそんな微妙なニュアンスが伝わるとも思わないけれど。伝える必要の無い事は、伝わらなくて構わない。
20121124


20

 次の日の配達は、緊張した。
 ひしゃげた自転車の代わりに勝手の違う別の自転車をあてがわれた所為もあるが、本当の所は、302号室の朝食について考えあぐねていたからだ。

 今日は昨日より一時間早い。あれだけの朝食を準備するのだからもう起きているかも知れないが、未だ寝ている可能性もある。普通人は寝ている時間だ。
 起きていたとしたって、昨日の今日だ。毎日来るなんて思ってないかも知れないし、そもそも、単なる社交辞令かも知れない。いやその可能性は非常に高い。客が新聞屋に飯を食わせる謂れなど無いじゃないか?

 最後の一部を手に、俺は302号室の前で逡巡した。ドアポストに入れるか、チャイムを押して手渡すか。

 チャイムを押して、出て来たサンジの顔に迷惑の表情を見てしまったら。
 そんなのは、耐えられない。
 ドアポストに新聞を入れようと、手を伸ばした。
20121125


21

 少し強引だったか。でも。来ないかも知れない一ヶ月後の機会を待つのは、耐えられそうになかった。
 ゾロに、飯を食わせた。
 がっついてくれた。美味いと言ってくれた。
 また食いに来い、と言った。
 おう、と答えてくれた。

 いつもなら配達の頃合い。二人分の朝食を用意し終えた俺は、居ても立っても居られず、玄関に居た。
 ゾロは、飯を食いに来るだろうか?

 気配がした。
 音を立てない様に、そっと、けれど急いでドアスコープを覗く。
 ゾロが、手に持った新聞をじっと見詰めていた。
 これは。
 迷っている?
 ゾロの手が新聞をドアポストに運びかけた。

 ——帰ってしまう。

 俺は急いでドアを開けた。
「おはよう。飯、出来てるぜ?」
 ゾロの吃驚した顔は、なかなか良かった。

 本当に迷惑だったなら浮かべるだろう表情は、一つも見えなかったから。
20121126


22

 結局毎朝、朝飯を御馳走になる為に、302号室のチャイムを押している。

 二度目のあの日。逡巡して、結果帰ろうとした日。突然開いたドアの向こうで、家主が——サンジが、笑顔を見せた、あの日。
 やっぱり美味かった朝飯を食べ終えて、そろそろ辞そうと思った時。
「遠慮しないでくれな?」
 サンジはそう言った。
「明日も、来てくれるか?」
 サンジはそう言った。
 施されているのは俺なのに、まるで施しを待つ様な、そんな目で。
 どうしてそんな目をするのか知りたくて、覗き込む様に見た。すぐに目は伏せられてしまい、知る事は叶わなかった。

「迷惑じゃないなら、」
「迷惑だったら、誘ったりしねえよ」
 間髪入れずに返された言葉と同時にこちらを見た目は、もう、あんな目じゃなかった。

 ほっとした。
 俺が、遠慮せずに美味い朝飯にありつく事で、サンジにあんな目をさせずに済むのなら。
 遠慮する理由なんか一つもない。そもそも、俺にとっては嬉しいだけの話なのだ。

「明日も、御馳走になる。今日と同じくらいの時間で大丈夫か?」
「ああ。待ってる」
 サンジはそう言って、笑った。

 帰路は心が浮き立って仕方なかった。
 いつか叩き落されるだろう、と心のどこかで意識しながら、それでも浮き立つ心はどうにもならなかった。

 毎朝、浮き立つ気持ちで302号室のチャイムを押している。
20121213


23

 サンジは良く喋る。
 物静かな男だろうと勝手に思っていたが、見当違いだった。
 しかしその声は耳障りではなく、どちらかと言えば耳に心地良い。外見の透明感に相反して、低く柔らかい。
 いつまでも聴いていたいと思う。そんな声だった。

 そんな声で、食事の間でも、料理の説明や店に来た客の事、今取り組んでいる新作菓子について、など、色々喋る。喋る合間にも食事はしっかり摂っていて、別段行儀悪くも感じない。不思議だ。
 俺は食べている間はどうしてもそちらに集中してしまって、掻き込む様になってしまう。いつも直ぐに食べ終わってしまって、気恥ずかしい思いをする。それをごまかしたくて、食後の茶は殊更ゆっくりと飲む。俺が喋るのは主にその時だ。

「何で、パ、ティ…パティ、シ…」
「パティシエ?」
「それ。何で、パティシエ、になろうと思った?」
「ジジィが、…一回会った事あるだろ? 集金の時。変な髭のごついジジィ」
「ああ、お爺さんなのか」
「…養父なんだけど、パティスリーやってて」
「パティスリー…」
「ああ、洋菓子屋。跡継ぎって訳じゃねえけど、俺、料理以外出来ねぇし」
「何で、コックじゃなくて、菓子?」
 こんなに美味い飯を作れるのに。
 そんなつもりで言ったら、サンジは笑った。
「女の子は、お菓子見たら良い笑顔するじゃん?」

 俺の笑顔はどうだ

 言いそうになった。何だそれは。言える訳が無い。
 曖昧に笑顔を返して、茶をぐいと飲んだ。

 サンジは、女の笑顔が見たいから、美味い菓子を作る。
 ゆっくりと茶を飲むのは帰り難いからだ、と、認めるのは、怖かった。
20121214


24

 そしてサンジは、聞き上手でもあった。
 自分は無口だと思っていたが、どうもサンジに促されると、するする喋ってしまう。

「新聞屋さんって、ちゃんと寝る時間あんの?」
「朝刊終わったら、大抵寝る」
「うん」
「で、昼に起きて、次の日のチラシ組んで、夕刊配って」
「月末は集金すんだろ?」
「うん、それ以外は、他に仕事がなけりゃそれで終わり」
「その後は何してんの? 流石にまだ寝ないだろ?」
「俺は、道場」
「どうじょう?」
「ああ。販売所の所長が、剣道場やってんだ。夕方からは子供達が来るから、そっち手伝ってる」
「剣道…、教えてんの?」
「一応、師範代だ。ちっこい頃からずっと剣道ばっかりやってて、それくらいしか出来ねえから」
「へえ。強えの?」
「んー、まあまあ、っつーか、まだまだ、だな」
 自慢したい気持ちと、恥ずかしい気持ちがない交ぜになる。早口で付け足した。
「そんで、風呂入って酒飲んで、八時には寝ちまう。で、夜中起きて朝刊配達して。そのくり返し」
 最近は朝飯が楽しみだ、なんて、流石に言えない。

「彼女とデートする暇ねえな?」
「…居ねえよ、そんなの」
「お前、モテそうなのに」
「そんな事、…ねえよ。お前こそ…」
 妙な雰囲気になりかけて、少し強張った。
「そーだよな? モテそうだろ、俺。何で駄目なんだろうなー?」
 殊更ふざけた声色で、救われた気がした。

 その手の話題は、避けたい。まだ。
 ——もう、と言うべきかも知れない。
20121215


25

 あれからゾロは、毎朝俺に新聞を手渡して、俺の作った朝飯を食っていく。
 綺麗な箸使いで、美味そうに頬張る。誰も取りやしないのに、勢いよく掻き込む。そして、食器を綺麗に空にして、ごちそうさま、と言う時、ちょっと『しまった』という顔をする。
 そうして、食後のお茶はゆっくり飲むのだ。わざと少し熱めに淹れたお茶を。

 ゾロが茶封筒を差し出した。
「何?」
「あー、食費?」
「何で?」
「いやだって、毎朝飯食わしてもらってるし。材料費ぐらいは。足りるか分かんねぇけど」
「いや、貰う訳にいかねぇよ。趣味の一環だし」
「でも、ただ食わせてもらう訳にもいかねぇよ、こんな美味い飯。俺の気が済まない」
 そんな嬉しい事言うなよ、それだけで充分だ。金なんて貰いたくねぇんだよ。商売じゃないんだ。食ってもらってんだ、こっちは。
「良いんだよ。俺、楽しいし」
「だったら、」
 ゾロはそこで一旦言葉を区切って、ちょっと覚悟を決めたみたいな顔をした。
「俺だって楽しいんだから材料費ぐらい受け取れ」
 え。
 どうしてそんな嬉しい事を言ってくれるんだ。美味いのは当然としたって、楽しいだなんて。やべえよ、泣きそうだ。

「じゃあさ…、うちの店に、菓子買いに来てくれよ、その金で。いつか。手間かけさせて悪ぃけど」
 ゾロは茶封筒をじっと見た。
「それじゃあ、店の利益じゃないか」
「店の利益は俺の利益だ。俺の飯は美味いと思うけど、菓子はもっと美味いんだ。だから、食って欲しい」
 恥ずかしいことを言ってしまった。
 沈黙が居たたまれない。
 堪え兼ねて何か言おうとした時、ゾロが口を開いた。
「分かった。必ず行く」
「おう。いつでも良いからな。駅向こうの『パティスリーバラティエ』だ。青い看板だ、直ぐ分かる」

 あんまり引き止めて睡眠時間を削らせるのも悪いから、ちょっとでも長く居て欲しい邪な気持ちは、熱めのお茶一杯分だけにとどめる。
 いつか、ゾロが俺の菓子を買いに、店に来る。ちょっとした約束が、胸をくすぐって、こそばゆい。
20121216


26

「明日から、新聞、一週間、取り置いといて欲しいんだ」
「どっか行くのか」
「ああ。出張。支店のピンチヒッターだ。で、よぉ」
 サンジは、言い辛そうに切り出した。
「一週間、朝飯、作れねぇんだ」
「そりゃそうだ」
「悪ぃ、な」
「悪かねぇよ。食わせてもらってるのがありがてぇんだ」
 謂れも無いのに申し訳なさそうにしているサンジの心的負担を軽くしてやりたくて、出来るだけの笑顔で答えた。
「一週間も、お前の朝飯が食えねぇのは、つまんねぇが」
 サンジが、はっとした顔でこちらを見る。
「一週間後が、うんと楽しみだ」
 最大限の笑顔で。

 さて、一週間。贅沢に慣れてしまった以上、侘しい朝食を覚悟しなくてはならない。
 一度チャレンジしたが結局辿り着けなかった『パティスリーバラティエ』訪店も、次週に持ち越しだ。サンジが居ないのなら行った所で意味が無い。
 そんな事を考えながら販売所に戻り、俺はとても暢気だったのだと、知る。
20121217


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