10

 チャイムを押す。反応を待つ。…遅い。不在か? 珍しい。
 出直すか、と荷物を手に持ったら『はい』とインターフォン越しの声が聞こえた。
 いつもと違う。しかしこちらからはいつもの通り。
「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」
 いつもより多く待つ間に、何かを落としたかぶつけたかした様な、派手な音が聞こえた。何があった?
 やっと開いたドアの向こう、いつもと違う雰囲気の家主が、黙って財布を突き出す。
「…どうかしました?」
 勢いで財布を受け取ってしまうと、家主は目を瞑り壁に寄りかかった。そのままずるずると座り込みそうになるのを、つい、抱きとめた。
 熱い。
「熱?」
 家主は億劫そうに目をこちらに向けると、「んー」と言って俺の肩に頭を乗せた。
 熱い。
「布団、どこだ?」
 家主を抱き抱えたまま慌てて靴を脱ぎ、家主が僅かに腕を上げた先に歩を進める。

『お客様の家に上がり込んではいけません』
『お客様と身体の接触をしてはいけません』

 仕事を始める時、所長に言い含められた。今でもそれは守っている。どれだけ誘われても。死守。
 けれど。
 これは緊急事態だから。
 こいつは男だし。
 元々、人妻に手を出してトラブルになったら困る、といった趣旨だった筈だ。うん、何も問題ない。発熱して意識が朦朧としている客をほったらかした方が、人道的に問題だ。だから俺は間違ってない。

 ベッドを見つけて、その上に寝かせる。生乾きになったタオルが生温くなっていて、枕元に染みを作っていた。もののついでだ、台所へ行き、タオルを濡らして額に乗せてやる。家主は既に寝息を立てていた。
 ダイニングテーブルの上に、今日の朝刊と、家のものらしき鍵があった。その脇に、渡された財布を置く。勝手に金を抜く訳にはいかない。集金は後でも構わない。戸締まりもしない訳にはいかないし、容態も心配だ。朝刊の配達ついでに様子を見よう。そう考えて、鍵を預かる事にした。
 一応、メモを残しておく。
『鍵、お預かりします。朝刊の配達時、様子を見に伺います。青海新聞、ロロノア』

 もう一度寝息を聞き、苦し気でない事を確認して帰ろうとした時、ふと、壁に設えられた飾り棚が目に入った。そこには、俺がおつりで渡す75円袋が3つ、並んでいた。入居の日に初めて配達した新聞と共に入れたメモを座布団にして。
 何で?
 埃一つ被っていない。こざっぱりした部屋ではあるが、それにしても。
 脈動が激しくなった。これは、動揺だ。

 朝刊の配達を終え、302号室を訪ねた。静かに鍵を回し、そっと室内へ。ベッドの上の家主は、穏やかに寝ていた。熱もだいぶ下がったみたいだ。一安心。
 先に残したメモは、残した時のままだった。恐らく、見てもいない。メモを差し替える。
『後日改めて集金に伺います。鍵は施錠して、ドアポケットに入れます。お大事に。青海新聞、ロロノア』
 帰る時ちらりと見た飾り棚には、やっぱり75円袋が3つ、メモを座布団にして並んでいた。
20120913


11

「ご迷惑おかけしまして」
 302号室の家主が、販売店にふらりと来た。
「これ」
 封筒を差し出す。
 中身を確かめると、3925円。
「わざわざありがとうございます」
 領収書を用意する。サービス誌と、新聞袋と、ゴミ袋も。
「もう大丈夫なんですか」
「はい、すっかり」
 貰うものを貰って渡すものを渡してしまえば、もうする事はない。
「滅多に熱なんて出さないんだけど。こないだは、急で。看病してくれる人呼ぶ間もなくて」
 ぽつりぽつりと話しだす。
 立ち去り難く思ってくれてるんだろうか。
 そんな風に思った事と、話の内容に動揺した。
「呼べば看病しに来てくれる人、居るんだ」
 うっかり敬語が飛んだ。
 ぽかんとされた。
「あ、いや、…見栄張った」
 一瞬情けない顔をして、直ぐに堪えきれない様に吹き出した。俺の表情も、同じだったと思う。ワンテンポ遅れて。

 手にしていた紙袋を渡された。
「お礼。嫌いじゃなかったら、食べて?」
 言いながら出て行った。
 店で買ったものみたいな包装じゃないそれは、やたらと美味い焼き菓子だった。
20120914


12

「こんばんは、青海新聞です。集金に伺いました」
 家主が五千円札を出す。釣りを渡しながら、礼を言う。
「うまかった、です。あれ」
「そう? 良かった」
 にぱ、と音がしそうな笑顔。
「甘いの苦手だったら悪いな、と思ったんだけど」
「甘ったるいのはアレですけど、良い甘さでした。ひょっとして、手作りですか?」
「うん。俺、パティシエだから」
「パティシエ?」
「そう。お菓子作る人」
「ああ、プロの菓子職人」
「うん。駅向こうのパティスリーバラティエって店で、作ってる」
「道理で。凄く美味しかった」
 花が、綻ぶような笑顔。

 花、など。
 男に使う形容詞じゃない。知ってる。けれど、丁寧に扱わねば散ってしまう、と思った。

 近しくなった心持ちで、個人的な会話をしながらの集金業務。
 でも最後は「ありがとうございました」「お疲れ様でした」会釈。

 これは仕事だ。勘違いしちゃいけない。
 勘違い、だ。
20121024


13

 褒められた。
 褒められる事が日常になっても、それはいつでも嬉しい。
 一つの嘘も隠していないような言葉なら、尚更。
 感謝の気持ちを込めて作ったものになら、尚更。

 集金後、ドアを閉めて鍵を閉めて、何の気無しにドアスコープで外を覗いた。
 集金を終えて用が済んだ筈の新聞屋さんが、ドアを見つめていた。
 今の俺の顔とは多分正反対の、切ない、と形容出来る様な顔で。
 それから溜息を一つ吐いて、ぎゅ、と目を瞑って、ぱ、と目を開いて、息を一つ吐いて、ドアから離れた。
 魚眼レンズを通した、歪んだ新聞屋さんは、そうして視界から消えた。

 心臓が跳ねた。
 何だ今の。
 まるで、まるで、恋に苦悩するみたいな。
 まるで、まるで、新聞屋さんが俺に恋してるみたいな。

 馬鹿馬鹿しい。そんな訳有るか。男同士だ。馬鹿馬鹿しい。

 ちょっと褒められたくらいで、馬鹿か、俺は。
 ——馬鹿だ、俺は。
20121025


14

 今月も、月末が来た。

「ろろろあ、や、ロロ、ノ、アさん…」
 苦笑された。
「ゾロ」
「え?」
「下の名前。ゾロ、です。『ゾロ』でいい、すよ」
 新聞屋さんがお釣りを手渡しながら、言った。
 俺はお釣りを受け取りながら、言う。
「…じゃあ、ゾロ」
「はい」
「敬語、止めねぇ?」

「堅苦しいのもアレだし。そりゃ、新聞屋さんと客だから、馴れ合う事もねぇのかも知んないけどさ、ほら、折角だし、その、歳も近そうだし、他に誰が見てるでもねぇし、普通に喋ったって罰当たんないだろ?」
 早口で捲し立てる。何言ってんだ俺。
「ちょっと仲良くしたいと思ってさ」なんて言わなかったのは、なけなしの良心、ってやつだ。いや、良心なんかじゃなくて…単なる臆病。
 馴れ合う必要以上に、仲良くする理由なんて無い。歳が近いから何だってんだ、アホか。
 客だから、あからさまに拒絶される事は無いかも知れない。自分の事として考えたって、そうだ。お客様から「仲良くしたい」とか言われたら、それがどんな奴だったとしても「ふざけんな馬鹿」と言って拒絶したりなど出来ない。曖昧な笑顔で首肯く自分が想像出来る。(それがもし美しいレディだったりしたら喜び勇んで連絡先の交換でもするかも知れないがそれはまた別の話だ。)

 けれど俺は、この新聞屋さんと「仲良くしたい」と思った。
 月に一度か、多くて二度、精々五分程度顔を合わせるだけの存在だ。
 けれどそれを楽しみにしている自分に、気付いてしまった。

 そのまま取って置いてある、75円のお釣り。新聞屋さんが作ったのかも知れない、それ。
 その下に敷いてある、二枚のメモ。新聞屋さんが書いた、字。新聞屋さんが介抱してくれた、証拠。
 それをそのままにしてある、理由。

 全部「仲良くしたい」に通じるじゃないか。
 ごまかすのは、もう止めだ。

「な?」
 邪心など欠片も無く見える様に、笑顔を作った。上手く笑えたろうか。
 新聞屋さんは、面食らった顔をしてから、僅かに頬を弛ませて、小さく首肯いた。
「俺は、サンジ、だ」
「知ってる」
 二人で声を出して笑った。

「仲良くしたい」の意味を考えるのは、一先ず棚上げだ。
20121102


15

「ろろろあ、や、ロロ、ノ、アさん…」
 何だその舌っ足らず。
 確かに俺の苗字は、言い辛い。
 軽く苦笑して、下の名前を告げる。下の名前で呼ぶ許可を与える。与える? 偉そうに。本当は「呼んで欲しい」と思ったくせに。家主が俺の名前を呼ぼうとした、それだけで高揚したくせに。
 綺麗に「ゾロ」と俺の名を呼んだ家主は、敬語じゃなくて良い、と言った。

 それじゃあまるで、親しくしたいみたいだ。
 頬が、弛んだのを自覚した。変に思われなかっただろうか。
 滞りなく集金業務を終え、次に会うのは恐らく一ヶ月後。

「じゃあ、また来月、な。サンジ、さん」
 暇を告げると、家主は目を細め、笑ったのか怒ったのか判別がつかない表情で言った。
「サンジ。」
 俺にも呼び捨てを許可するのか。
「…サンジ」
「じゃあな、ゾロ」

 甚く満足げな家主は、ドアを閉める際に手を振るというサービス付きで俺を送り出した。
 俺は流石に手は振れなくて、片手を軽く上げる事で応えた。

 これをどう考えたら良いのか。
 放っておけば浮き立ってしまう気持ちを、どうすれば良いのか。
「ゾロ」
 家主の声で呼ばれた名前。
「サンジ」
 呼ぶ事を許可された名前。
 浮き立つに任せておいて、良いのだろうか。
20121103


16

 名前を呼び合ってから一ヶ月。
 302号室のドアポストに新聞を入れる度、頬が弛むのを自覚している。
 今月も、月末が来る。集金業務で、サンジに、会う。上手く呼べるだろうか。サンジ、と。

 チャイムを押す。
「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」
 業務は業務だ。いつもの通りに。

 ドアを開けたのは、サンジ、では無かった。
 厳つい爺さん。
 誰だ。
「お幾らですか」
 若干嗄れた、迫力のある声が言う。
「…三千、925円になります」
「じゃあ、これで」
 見覚えのあるサンジの財布から、五千円札を抜き出して手渡される。
「千円と、75円、です」
 お釣りと領収書、サービス誌と新聞袋とゴミ袋。いつものセットを手渡す。
「ご苦労様」
「ありがとうございました」
 頭を下げている間に閉められたドア。
 誰だ。
 サンジの、父親か、親類か、それとも?

 冷や水を浴びせられた様な気がした。浮かれるな、と忠告を受けた様な気がした。
 いつもサンジが居る訳じゃない。来れば必ず会える訳じゃない。思い知らされる。
 名前を呼ぶ事を許されたくらいで。何も、特別じゃない、と。浮かれていた、と。
 思い知らされる。
 サンジはお客様で、俺はただの新聞屋だ、と。
20121121


17

 久し振りに家まで来たジジィにお使いに遣られた。戻ってみると、ダイニングテーブルに財布と千円札と75円の小袋、新聞の領収書、サービス誌と新聞袋とゴミ袋が置いてある。ああ、もう月末だった。ゾロが、集金に来たのか。そうか、もう来ちゃったか。
 ぽっかりと、胸に穴が空いたみたいな虚脱感。

「新聞屋さん、来たのか」
「来たな」
「金、どうした?」
「お前の財布から払っておいた」
「おお。…どんな奴だった? 集金の人」
「若い男だったな。それがどうした?」
「いや、別に」
 ちょっと声が硬くなったのを自覚した。
 一ヶ月振りだったのに。次は一ヶ月後なのに。

 会おうと思えば、会える。居場所は分かっている。新聞販売店に行けば居るのだ。
 ゾロに至っては、住所さえも知っている。しかも毎日来ている。けれど、会わない。
 会う必要が、無いのだ。会う必要は、月に一度だけ。
 会うのに、理由が要る。そりゃそうだ、新聞屋さんと、ただの客だ。
 ハードルが高い。
 …何のハードルだよ? 会わなきゃならない理由なんて、無いんだ。ただ、…会いたいだけ。
 そうだ。俺はゾロと、会いたい。認めてしまえ。
 月に一度の会う必要は、容易に潰れる、脆いものだ。今日みたいに、俺の居ない時に来るかも知れない。集金担当者が、変わるかも知れない。ゾロが仕事を辞めないと、どうして言える?
 そんなものに、委ねていて良いのか? 会いたいんだろ? 仲良くしたいと思ったんだろ?

 焦燥感が、俺を後押しする。
20121122


 back
next