引越しの日。
 新居に着いてみると、郵便受けに朝刊が入っていた。
 それと、メモ。

『302号室 サンジ様
 お引越しおめでとうございます。
 本日より、どうぞよろしくお願い致します。 青海新聞』

 新聞は、青海新聞と決めている。
 幼少時から馴染んでいるというのもあるが、何よりも、お料理コーナーの充実が素晴らしい。
 一度勧誘員に負けて他紙に浮気をした事がある。
 ダメだった。お話にならない。
 三ヶ月だけという約束だったのに、その後もしつこく勧誘してきたのもいただけない。
 それ以来、誰が何と言おうと青海新聞一筋である。

 だから、そんなメモなんか無くたって、ちっとも構わなかったのだ。
 構わないのだけれど。
 その手書きの文字は、とても好ましいものだった。
 棄ててしまう気になれなくて、何となく、飾り棚に置いたままにした。
20120826




 月末。夕食時。チャイムが鳴る。
「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」
「はいー」
 一応返事をし、財布を持って玄関へ。鍵を開け、ドアを開ける。
「幾らでしたっけ?」
「3925円になります」
 財布を漁る。そこまで大量の小銭は無い。
「すいません、これで」
 五千円札を出す。
「はい、ありがとうございます」
 新聞屋さんは五千円札を受け取って、ウエストポーチに入れる。その手で千円札を一枚と、小袋を一つ取り出す。
「千円と、75円、です」
 差し出した俺の掌に、千円札を乗せ、その上に透明な小袋を乗せた。

 その小袋には、五十円玉が一枚、十円玉が二枚、五円玉が一枚入っている。そんな小袋が、そのウエストポーチには幾つも入っているようだ。
 彼が、ちまちまと詰めたのだろうか。あんまり器用そうじゃない太い指。勢い込んで袋が裂けたり、小銭が転げ落ちたりしたんじゃないだろうか。
 想像して、微笑ましく思う。勝手に。ちょいと失礼か。

 続けて、領収書とサービス誌と新聞袋とゴミ袋を渡された。
「ありがとうございました」
 新聞屋さんは、軽く頭を下げ、ドアから一歩遠ざかる。
 俺は「お疲れ様です」と言って、会釈してからドアを閉めた。
20120827




 帰路、買い物をして支払いの際、たった3円足りないばかりに、千円近い小銭で財布が膨れる事となった。

 月末、夕食時のチャイム。
「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」
 おお、今日はおつり無しのぴったりで支払える。

「ええと、三千、」と言って、まず千円札を三枚渡す。
 それから「九百、」と言って五百円玉を財布からつまみ上げて見せると、新聞屋さんは掌を上に向けて差し出した。
 その上にまず五百円玉を一枚乗せ、「一、二ィ、三、四、」と数えながら百円玉を四枚掴み、一枚ずつ五百円玉の上に落とす。
「二十、」十円玉二枚を同様に、最後に五円玉を一枚、「五円。」と言いながら。

「丁度、頂きます」
 新聞屋さんは、小銭が乗った掌を一旦握り、ウエストポーチに滑り込ませる。中で手を開いた様で、じゃら、と金属音がした。札を握る手もポーチの中へ。
 それから手渡される、領収書と、サービス誌と、新聞袋と、ゴミ袋。
 交わされる会釈と、「ありがとうございました」と「お疲れ様です」。

 毎月同じ人が来るんだな。
 閉じたドアの前で、ぼんやりそう思った。
20120828




 月末、夕食時のチャイム。
「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」

 今日は二千円札が二枚と、十円玉二枚と五円玉一枚が、有る。
 二千円札なんて、嫌がられるだろうか。でも、普段の買い物に使うのは気が引けて、二千円札は溜まる一方だ。正当な金なんだから文句は無かろう、使ってしまえ。
「四千円と、二十五円」
 と、若干恐縮しながら渡すと、新聞屋さんは二千円札を凝視した。
「これで払われたの、初めてです」
 新聞屋さんは二枚の二千円札を擦って見せた。頬が上がっている気がする。

 嬉しいの? 二千円札が? 子供なの?

「おつりです、百円」
 小銭が種別に入ったケースから百円玉を一枚取り出して、差し出した俺の掌に乗せる。
 指が、掌の真ん中に触れた。
 乾いて、温かい。

 領収書、サービス誌、新聞袋、ゴミ袋。
「ありがとうございました」「お疲れさまでした」
 会釈。

 ひと月前と一緒。多分、来月も一緒。
20120829




 月末、夕食時、チャイム、「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」。
 二千円札を、二枚。
 差し出した掌に乗せられる、透明の小袋。おつりの75円。掌の真ん中に触れる指。

「寒くなりましたね」
 指が触れたまま、新聞屋さんが言う。
 世間話だ。当たり障りの無い、気候の話。
「配達もしてるんですか」
「はい」
「これからの時期は、寒いし暗いし、大変ですよね、一層」
 指が触れたまま。
 当たり障りの無い労いの言葉に、新聞屋さんは「いえいえ」と緩く頭を横に振った。

 領収書、サービス誌、新聞袋、ゴミ袋。
「ありがとうございました」「お疲れさまでした」
 会釈。

 ふた月前に貰った小袋が、手つかずのまま取ってある。引越しの日に入っていたメモの上に、置いてある。理由なんて考えもしなかったけど。
 その隣に、今日のおつりを置く。
 彼が作っているのだろうか。あの指で。
20120830




 月末。マンションの外廊下に辿り着くと、新聞屋さんが二つ隣の部屋で集金をしていた。

「クレジットカード払いになさいませんか」
「サービス悪くなるんじゃない?」
「そんな事ありませんよ、カード会社のポイントも溜まりますし」
 そんな会話の後ろを通って、自室に向かう。

 へえ、クレジット。集金の手間が減るしな。販売所で目標何件、とか有るのかもな。あの人の成績に関係あるのかな。断るのは可哀相かな。でも、カード払いじゃ嫌だな。いや、何となくさ。

 玄関で、チャイムが鳴るのを待っているのは待ち構えるみたいで嫌だ、と思い、靴を脱いで廊下を歩いた。インターフォンの前に着いた時、チャイムが鳴った。
「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」
「はーい」
 玄関に取って返し、一万円札を出す。
 ウエストポーチからおつりを用意している最中「今、お帰りですか?」と訊かれた。
「ええ、今日は、たまたま。いつもはもっと、早いんですけど」

 五千円札と千円札を一枚ずつと、透明の小袋を掌に乗せられる。
 領収書、サービス誌、新聞袋、ゴミ袋。
「ありがとうございました」と言って会釈。
 カード払いを勧められるものだとばかり思っていたのに、そんな話は一切せずに帰ろうとするから、いつもの動作が出来なかった。
 変な間を空けた俺を、新聞屋さんが不思議そうに見た。
「あ、いや、お疲れ様でした」
 会釈してドアを閉める。

 カード払いにしたい訳じゃないのだから、そんな話はされなくて良いのに。
 どうしてカード払いを勧めないのか、その理由が気になった。
 メモの上に三つ並べたおつりの小袋を見て、どうしてカード払いにしたくないのか考えた。
 小袋もメモも、答えを教えてはくれなかった。
20120831




 チャイムが鳴った。
「こんばんは、青海新聞です」
 今日はまだ月末じゃない。が、習慣で財布を掴んでドアを開けると、俺の手の中の財布を見た新聞屋さんは言った。
「あ、今日は集金じゃなくて、契約が今月で切れますので、継続をお願いに」
「ああ、そうですよね、まだ集金には早いですよね」
「六ヶ月、お願い出来ますか」
 次の半年も、彼が集金に来る。
「ええ、良いですよ」
「じゃあ、ここにサインを」

 差し出されたペンを受け取る時。
 差し出された伝票に手を添えた時。
 書き終えてペンを返す時。
 手が触れた。

「サービス品、この中から三つ、選んでください」
 油だとか洗剤だとかが載ったチラシを見せられる。
「じゃあ、これを二つと、これ」
 洗剤を二つと、トイレットペーパーを一つ。
「用意ができたら、お持ちしますんで。ありがとうございました」
 会釈。
「よろしくお願いします」
 会釈。

 ドアを閉じた手が目に入った。
 温かく、乾いた感触を反芻しかけた。
 何考えてんだ。
 ぎゅ、と手を握って、頭を振った。
20120903




 図書館に用が有って普段通らない道を通ったら、そこに青海新聞の販売店が有った。中では何人か、作業している。

 あの人も居るのかな。
 店内をさりげなく覗きながら、心持ちゆっくりと歩く。
 居た。
 目が合い、ちょっと吃驚した顔をされた、気がした。それから、ちょこんと会釈。
 え? 顔、覚えられてる? いや、まさか。地域に根ざした商店だ、目が合ったら挨拶、商売の基本。それだけ。それだけに決まってる。
 軽く会釈をした。人間関係の基本。上げた頭を彼に向ける事なく歩を速めた。
 もし目が合ったりしたら居たたまれないし、既にこっちを見ていなくても居たたまれない。
 居たたまれない?
 何でそんな風に思うのか、と思って、そんなの自意識過剰が恥ずかしいだけだ、と思い至る。
20120905




 チャイムが鳴る。
「こんばんは、青海新聞です」
 まだ月末じゃない。

「サービス品お持ちしました」
 差し出される洗剤と、トイレットペーパー。
「ありがとうございます」

 この間、目、合いましたよね?

 そんな事、訊けない。
 洗剤とトイレットペーパーを介在して、両手が繋がる。
 その間、しっかりと目が合う。
 見上げも、見下ろしもしない視線の位置。同じくらいの身長なんだな。
 新聞屋さんの体躯はがっしりとしているから、随分大きい人なんだと思っていた。

 ものの数秒とはいえ、物の受け渡しにしては長い時間静止していた気がする。
 不審に思われたら嫌だ。
 にっこり笑って、受け取った腕を引いた。
 新聞屋さんの腕は、それがぴんと伸びるまで、品物に添えられていた。
20120906




 新聞販売店を覗く。
 居た。
「あの、来週一週間、新聞の取り置き、お願いしたいんですけど」
「はい。取り置き、ですね。月曜日の朝刊から日曜日までで良いですか?」
 ノートに、メモをしながら。
「取置いた分は、再開時にお届けしますか?」
「はい、お願いします」

『月曜~日曜、お取り置き、翌月曜に配達』
 意外と流暢なこの字は、あのメモのものと同じ字だ。
『受付:ロロノア』
 へえ、ロロノアさん。

『メゾンオールブルー、302号室、サンジ様』
「え?」
 迷い無く綴られた俺の個人情報に、思わず声が出た。
 俺、名乗ったっけ? マンションと部屋番号、言ったっけ?

「え? …あ、部屋、302号室じゃありませんでしたっけ?」
「いや、合ってます」
 合ってるけど。あのマンション、確か300世帯くらいあると思うんだけど。世間的なシェアから考えて、100世帯くらいは青海新聞だと思うんだけど。それだけの数、顔と名前と部屋を一致させるのって、結構難しいと思うんだけど。顔会わす機会なんて、月に一度の事なのに。
「…覚えてるんですか?」
「はい」
 事も無げに言う。
「全世帯?」
「いや、まさか」
 え?
「あ」
 あ?

「いやあの、珍しいんで、その、あのマンション、単身者向けじゃないのに、若い男の人で、その、集金の時いつも居てくれるし、その、語呂合わせ的にも」
 随分早口だ。珍しい、気がした。いつももっと、どっしり喋る人だと思ってた。知ってる訳じゃないのに。何か言い訳してるみたいな。
 ん? 
「語呂合わせ?」

「ええ、3、0、2、で、サ、ン、ジ、さんって」
「ああ」
 ちょっと、拍子抜けした。気を張る必要がどこにあったのかは、知らないけれど。
 そうだ。珍しいから。珍しいものは、記憶に残りやすい。他に特別な理由なんて、無い。有る筈が無い。
20120907


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