フランクフルトにて
前段:Alpöhi   



   Fräulein Rottenmeier




 甘やかしてくれるあの手がどれほど恋しくとも、私はあそこでは暮らせない。
 私には、職務がある。
 誇りを持っている。
 女だてらにこの家で、この地位まで昇り詰めた。
 手放せない。
 手放せば、私は私でなくなってしまう。
 これまでの自分に、何ら恥じる事は無い。
 だからこれからも。
 私は私の職務を全うするだけだ。

 そう。けだものの闊歩するあそこでは、私は暮らせないのだから。




1. Sebastian

 俺の上司は、有能だ。
 まあ、人を使う、って点では若干難がある気もするが、でも、まあ、あの旦那様には丁度良いだろう。
 旦那様は、お優しい。
 家のトップがあれじゃあな。締まらねぇもの。
 うちの執事長くらい、きっちりしてなきゃあ。
 でも、ここだけの話、可愛い所もあるんだぜ?

 動物が、ダメらしい。

 執事長に従って廊下を歩いていた。
 突然「けだものっ!」と叫んだかと思ったら、体が仰向けに倒れて来た。
 慌てて抱きとめた体の向こうでは、小さなネズミが呆然と佇んでいた。
 ネズミにそんな表情が出来るのかって言えば疑問だが、そうとしか思えなかった。そりゃ驚くよな、ネズミにしてみれば、見かける人間なんて鬼の形相で追いかけてくるのが常だろうから。まさかこんな小さな体でヒト一人卒倒させる事が出来るなんて思いもしないだろう。
 俺も驚いた。あの執事長がこんな小さなネズミで卒倒するなんて。ネズミと呆然と見つめあうなんて経験、滅多に出来るもんじゃない。
「チチッ」と一鳴きしたネズミは、廊下の隅に沿ってどこかに消えた。
 捕まえなきゃ、と思ったが生憎、両腕は塞がっている。
 命拾いしたな、ネズミ。

 手近な扉を開けて、執事長を長椅子に寝かせた。
 眉間には皺が寄っており、顔色は蒼白だ。
 女性にしては大きい体躯。
 抱きとめたそれは、思ったより柔らかかった。

 悪い人じゃないんだよな。頼りになる上司だ。

 日頃から皺が寄せられている事の多い眉間に、そっと唇を落とした。
「ばれたら叱られるかね?」
 眉間の皺が少し伸びた、気がした。
「それとも罵倒されるかね?『けだもの!』ってさ」

 そんな顔をちょっと見たいと思ったのも、ここだけの話だ。




2. Herr Sesemann

「いつもすまないね」
「君には本当に感謝している」

 そんな風に言われて、心が動かない女など居ようか。

 女で居るつもりなど無いけれど。


 奥様が、まだ坊っちゃまだった旦那様に私をお手付きにさせようとしていた事を、私は知っている。
 まだ私も若かった頃だ。
 賢明なる旦那様は、奥様の思い通りにはならなかった。
 当然、私は自分が若奥様の座に収まれると思ったりはしなかった。
 奥様にそのつもりが無い事は、はっきりと分かっていた。
 きっと、旦那様も分かっていた。

 勿論、だから旦那様は私に手を出さなかったのだ、奥様のそんな思惑が無ければ旦那様は私に手を伸ばしただろう、などと自惚れたりはしていない。
 分を弁える事。
 それは何より重要な執事の資質だ。

 だから何だ、と括られるに過ぎない、昔の話だ。


 旦那様の選ばれた伴侶は、素晴らしい女性だった。
 流石は旦那様だ。
 若奥様が亡くなられた時、私も旦那様と同じ喪失感を味わった。

 葬儀のごたごたが一段落した頃だったろうか。
 一度だけ、旦那様は私の体に腕を回して、涙を流された。
「すまない。今だけ、今だけだ。すまない。」
 そう繰り返して、一晩、私の腕の中に居た。
 そんな事、いいのに。
 そう言う訳にもいかず、一晩中、時折揺れる旦那様の頭を見下ろしていた。
 その時心裡を占めていたのは、悲しみや憐れみではなかった。

 寧ろ悦びに近い。

 自分の後ろ昏い感情に気づき、慄いた。

 その時だけだ。
 旦那様が私に触れたのは。
 私が旦那様に隠さねばならない想いを抱えたのは。


 お手付きの座や、若奥様の座を私に与える事は無かったけれど、しかし旦那様は私に、信頼を寄せて下さっている。

 それだけで、私は一生をゼーゼマン家に捧げられる。
 それだけで、充分だ。
 あの時、そう決めたのだ。




3. Frau Sesemann

 この娘は私を天敵かなにかだと思っているだろう。

 悪い娘じゃない。一生懸命やってくれている。

「ねえ、ロッテンマイヤー?」
「何でございましょう、奥様」
 私の為に淹れてくれるお茶は、大変美味しい。
 気に食わない相手に美味しいお茶を出せるのは、美質だ。

「この家に来て、何年になる?」
「三十年でございます」

 三十年!

 三十年もこの娘は、この家の為に生きてきた。
 女としての幸せなんて、知らないに違いない。

 この娘が家に来た頃の事は、今でも覚えている。
 従順な顔で、反抗を隠していた。
 何をやらせても優秀で、なのに卑屈を隠しきれていなかった。
 優し過ぎる嫌いのある息子には、こういう人物が傍に居る必要があろうと直感した。
 一メイドに過ぎなかったこの娘は、めきめきと頭角を現し、古参のメイドを飛び越えていった。

 引き立てたのは、私だ。

 古参の使用人に苛められていたのは知っている。
 どこにでもある話だ。出る杭は打たれるものだ。だから、手出しはしなかった。
 それでも不貞腐れず、駄目にならず、淡々と職務をこなしていた。
 下手な嫉妬など撥ね除け、周囲を認めさせるだけの仕事ぶりを。
 主人からの抜擢を依怙贔屓ではなく、当然の事と思わせるだけの仕事ぶりを。
 純粋に、埋もれさせるのは惜しいと思った。

 それと同時に、いつまでも手元に置いておきたかった。
 ただのメイドでは、そのうち適当な相手を見つけて家を出てしまう。
 それが容易に出来ないだけの地位を。
 そんな思惑が無かったとは言わない。
 全くのエゴであると、思う。
 けれど。

 手放したくなかった。
 この家に縛り付けておきたかった。

 息子は生憎、或いは幸いにも、メイドに手を付ける様なろくでなしでは無かった。
 おかげで、或いはその所為で、この娘は職責を負う方向でゼーゼマン家の為に生きている。女としての悦びを知る方向ではなく。
 三十年も。

 気の毒な事だ。
 全て、私の仕組んだ事だ。

「ねえ、ロッテンマイヤー?」
「何でございましょう、奥様」
「あなた、この三十年、幸せだった?」
 ちらりと視線を寄越して、私の目を見据えてから、この娘は言った。
「勿論にございます、奥様」
 にやり、と顔を歪ませて。

 手放したくなかったのは、私だ。

 この娘が、家に来た頃と何ら変わらない心根で、この三十年を幸せだったと言うのなら、離してなどやらない。
 この家に縛られながら一生を、幸せだと思い込めば良い。

「お茶を、もう一杯」
「はい、奥様」

 従順な顔に隠した反抗は職務を全うしようとする気概に包まれて、今はもう見え難い。
 しかし確かにそこにある。

 だからこそ、私はこの娘を手放さない。
 この家に、この娘は必要だ。

 どうか私を存分に憎んで。
 そして願わくば、それでもその一生を幸せだと思えますように。
 そうひっそりと祈る事が、この娘のこれまでの三十年とこれからの年月を奪う私に出来る、せめてもの贖罪だろう。



アルムの森にて 再び  




前回、ロッテンマイヤーさんに「けだもの」と言わせるのを忘れたので。
挙句、萎れてたり枯れたりしている百合だと?(なんて言い草か!)

Wikipediaに依ると、ロッテンマイヤーさんは「執事(原作では家政婦長)」だそうですが、ここでは言葉の響きのみから「執事長」とさせていただきました。
果たして執事(或いは家政婦長)ってのはどういう経歴で成れるものなのやら。当然の様に捏造ですのであしからず。
(十代半ばで女中奉公に出て、生え抜きで使用人頭に、ってのはアリなんだろうか。さっぱり分からん。)


utae 
2012.06.08 

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