1. おんじは預かりもののお嬢さんをひょいと背中に担ぎ上げると、屋根裏部屋に運んだ。 おんじにとっては雑作も無い事だが、クララは背中でしきりに恐縮している。 流石は育ちの良いお嬢さんだ。 自分の孫娘をそうした時はどうだったかと、五年前を思ったおんじの思考は、クララの上げた歓声に寸断された。 「素敵! お日様の匂いがするわ!」 干し草にシーツを掛けただけの簡易ベッドを、クララは大層喜んだ。ベッドの上で、尻で体を弾ませている。 「クララったら、子供みたい」 自分だって初めての時は同じ反応をしたくせに、ハイジは大人振って言う。 「なによ、ハイジの方が子供のくせに」 「言ったわね!」 言い争う声が、笑っている。 どちらも子供だ。 おんじは頬が弛むのを見咎められない様に、そっと階下へ下りた。 やがて声は潜められ、それでも甘ったるい花の様な気配を漂わせる。 そしてそれはまもなく寝息に取って代わられた。 二人、寄り添って寝ているのだろう。同じ、幸せな夢を見るかもしれない。 そうだと良い、と、おんじは柄にも無く思い、孫娘とお嬢さんの幸せを神に祈った。 2. 「おんじ、…ハイジは、変わっちまったよな?」 おずおずと、ペーターが切り出す。 「そうか?」 たかだか一年ばかりフランクフルトで暮らしたからと言って、変わったと言う程の変化などないだろう。 そう思うが、しかしその返答にペーターは不満な様子を隠さない。 「もっと、…子供だったろ?」 まだ子供だろうが。 そうは思うが、孫娘など、例え成人したとて子供だと思うに違いない。だから、年長者の分別を言ってやる。 「それは致し方あるまい? 時が流れれば年を取る。いつまでも子供じゃ居られまいて」 「そうだけど…」 引き続き不満であるらしい。全く、時が流れても、年を取ったとしても、変わらない。 いつの時代も、男は女に置いてきぼりを食うものであるらしい。 「お前は、いつまで子供で居るつもりだ?」 からかってやれば、目を丸め、それから口を不満げに尖らせ、目を伏せる。 「!…もう、子供じゃないよ」 「そうかい」 まだまだ、子供だ。 山の上で山羊を追っているにしては、骨も筋も、まだ柔い。指はすんなりしており、頬もまだ丸みが抜けぬ。声だって、まだ甲高いままじゃないか。 何より、友達の心変わりを嘆く、柔らかな心。 お前は、優しすぎるんだ。 武骨な指で、潤んだ眦を一撫ですると、はっとした顔でこちらを見た。 赤くなった鼻の頭を二三度擦り、節くれ立った五指で頭部を掴む。 存外柔らかい髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜ、胸に引き寄せてやった。 「誰も見てない」 そう言えば、「おんじ…」と呟いてしがみついて来る。 胸元が若い水分でぐちゃぐちゃになった。 3. 「あなたが、白パンを食べた事が無いという?」 背筋にピンと一本通ったような姿勢を崩さない女だ。 「何の話だ」 視線だけを動かして問えば。 「あの娘が『おじいさんに白パンを食べさせたい』と泣いたので」 ほう。泣いたのか。 「食った事はある。まあ、ここでは食わんから、あれが見た事は無いかもしれんがな」 「どういう教育をなさってましたの?」 相変わらず背筋を伸ばしたまま。僅かな沈黙の後、再び質問された。 「教育?」 「ええ、アーデルハイドに。全く、なってませんわ」 普通、そういった事は遠慮して言わないものではないだろうか。 「お前の様な女にする為の教育なら、生憎施してはおらんがな」 「私の様な、とは?」 眉を吊り上げたのが見て取れた。少し愉快な気分になる。 「いつもカリカリして、つまらない人生を送る。」 「何ですって? 失礼だわ!」 正しい反応だ。失礼に失礼で返したのだから。 「…好きでカリカリしている訳じゃありませんわ」 思わず激高した自分を恥じたかの様に、ぼそりと言った。 「私は、私の職務を全うしているだけです」 消え入りそうな声で。 らしくなく、と、良く知りもしないくせに思った。 「そうか。悪かった」 素直に謝るのもきっと自分らしくないが、この女がそんな事を知る筈は無い。 *** ロッテンマイヤーは、泣いた。 いつ振りの涙だったのか、それは本人にも分からない。 ロッテンマイヤーが人前で泣くのは、赤ん坊の頃以来の事だった。 「来い」 おんじは、大様に片腕を広げた。 ロッテンマイヤーには、おんじの意図が分からない。 動けないでいるロッテンマイヤーに、おんじは再度腕を広げて言った。 「ほれ」 ぎこちなく歩を進め、おんじの目の前で止まったロッテンマイヤーの腰を、おんじが挙げた腕が囲った。 太く、強い腕だった。 膝の上に座らされ、もう片方の腕で頭を撫でられた。 こんな風に甘やかされるのは、いつ振りだろう。 少なくとも、ロッテンマイヤーの記憶には、無かった。 ロッテンマイヤーは思う様甘やかされ、思う様泣いた。 常にピンと伸ばして生きて来た背筋は、胎児の様に丸まっていた。 |