アルムの森にて 再び
前段:Alpöhi   



   Geissenpeter


1. Alpöhi

 胸元で泣くペーターの背を撫で続けた。
 しゃくり上げるのが一段落した所で、首筋に顔を寄せた。
 若い匂いを、吸う。

 ペーターが笑って言った。
「くすぐったいよ、おんじ」
 構わず髭を擦り付けると、ますます身を捩り、忍び笑いを漏らす。
 舌を差し出すと、少ししょっぱい肌に触れた。
 ペーターの体が、一瞬で強張る。

「な、何?」
 ようやっと、といった風情で出した声に答える代わりに、更に大きく舌を出し、今度は明確に舐め上げた。

「お、おんじ?」
「何だ?」
 耳元で訊くと、ペーターはぶるりと体を震わせた。
「い、いや……」
 耳の裏から項へ、唇を這わせる。
「はっ……っ」
 ペーターの首から力が抜け、頭がこてんと肩に乗った。
 横目で顔を見ると、眉根を僅かに寄せ、瞼は殆ど下りている。
 しがみついたままの体を、そっと横たえた。


「おんじ…、くすぐったいよ…」
「我慢しろ」


 どこもかしこも若い体を貪る。
 神は決してお許しにならないだろう。




2. Klara

 きっと、ハイジを変えてしまったのは、この女だ。
 金髪で、肌が白くて、歩けなくて、金持ちの、都会の、女。


「ハイジ、手伝え!」
「はーい、おんじ、いま行くわー! クララ、ここで待っててね」
「ええ」

 車椅子から降りて草むらに座り、花を編みながらお喋りに興じていた。
 ハイジが行ってしまってからも、花を編むのに夢中のようだ。
 大分近付いてからやっと顔を上げてこちらを見た。

「あら、ペーター」
 無邪気に見上げてくる顔が、腹立たしい。
 かっとなって、押し倒した。

「きゃっ」
 小さく上げられた悲鳴が、甲高い。
 馬乗りになって肩を押さえつける。
 大きく開かれた瞳に、自分が映っている。
 奥歯をぎりぎりと噛み締めた。

「ペーター?」
 柔らかい声だった。
 編んだ花が、散って、香った。

 どうしたかった訳でもない。
 衝動的にした事だった。
 どうしたら良いか、分からなかった。

 上半身から力が抜けて、くたりとクララの上に倒れ込んだ。
 上半身が、ぴたりと重なった。
 唇が耳を掠めて、首筋に着地した。

 あの時、おんじはどうしたっけ?

 鼻から息を吸って、首筋に吸い付いた。
 柔らかい肌だった。

「ペーター?」
 返事はせずに首筋を食んでいると、クララは言った。

「ユキちゃんが、見てる」

 自分の名前に反応したのか、ユキはタイミングよく「メェ」と鳴いた。


 違う。こんなのは違う。持て余した熱の行き先は、ここじゃない。


 身を起こして、車椅子を蹴飛ばした。派手な音を立てたから、壊れただろう。
 一度も振り返らずに、走って逃げた。

 全部、置き去りにした。




3. Heidi

 あの後何度か、俺はおんじの胸で泣いた。
 それについておんじが何か、からかう様な事は言わなかったから、安心して甘えていられた。
 おんじの鼻の下から頬、もみあげへと続き、顎へと流れる、白く豊かで固い髭は、俺の肌を優しく撫でて、いつもくすぐったかった。
 かさついた唇も、熱い息も、厚い舌も、全部がくすぐったかった。

 すっかり泣き止んで気分を高揚させた俺の着衣を整えるおんじの表情が、痛みを堪えている様に見えてからは、甘えてはいけないのだ、と我慢した。

 俺も、いつまでも子供では居られない。



 すっかり歩ける様になって、蒼白だった顔が健康的な艶を湛える様になると、あの女はフランクフルトに帰って行った。
 五年経った今でも、フランクフルトからは定期的に手紙が来るし、ハイジも返信しているようだ。

 五年のうちに、幾つかの事が変わった。
 例えば、幼い友達だったハイジとは、友達とはしない様なあれこれをする仲になった。


 山羊を放牧している最中、ハイジが弁当を携えてやって来た。
 二人で、他愛も無い話で笑いながら食べた。
 風も陽射しも穏やかな午後、草むらにそっと、ハイジを横たえた。
 啄む様にキスをする。

「ユキちゃんが、見てる」

 その科白は、聞いた事がある。
 あの時のユキと、このユキは、当然別の個体だ。けれど相変わらず俺たちの傍には、白い子山羊が居て、そいつの名前は『ユキ』だ。これは五年経っても変わらない事の一つ。

「あの女が、言ったのか?」
「あの女?」
 そう訊いたハイジの声には、全く何の含みも感じられない。
 本当に何も知らないのか、さもなくば、ハイジは本当に変わってしまって、何の躊躇も無く嘘を吐ける様になってしまったのか、そのどちらかだ。


 もう、どちらでもいい。


 あの時おんじが言った事が、今なら分かる。
 時が流れれば年を取るし、変わる所は変わる。

 けれど、変わらない事は変わらない。

 何かが変わって何かは変わっていないのだとしても。

 ハイジが俺の腕の中に居る。
 もう、それだけでいい。



フランクフルトにて  




「おんじてめぇ何しやがる」と思いながら書きましたよ。
前回「くすぐったいよ、おんじ」と言わせるのを忘れたので。
73歳と14歳か…うーむ。
そして「ユキちゃんが、見てる」と言わせてみたかった。
12歳と14歳ね…ふーん。
五年後、ってのは何となく。ぎりぎりのラインかな、と。
13歳と19歳か…うーむ。


utae 
2012.06.08 

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