杞憂
・ドラム後アラバスタ前を想定 


 1

「なぁ、ゾロ」
 チョッパーが言い辛そうに、口にした。
「ゾロは、サンジの事が嫌いなのか?」
 何を言い出すんだ、このトナカイは。
「だってゾロ、サンジの事、名前で呼ばないだろ?」
 ああ、そんな事。
「コック、とか、クソコック、とか、ラブコック、とか、クソ眉毛、とか、…」
 幾らでも挙げられる呼称は、我ながら捻りが無い。言い連ねるチョッパーは、悲し気な顔だ。
 お前がそんな顔をする事は無い。
 チョッパーの頭に掌を置いた。
「大丈夫だ」
「…? 何が、大丈夫だ?」
「ちゃんと、呼んでる」
 それが何時、どんな状況下でなのかを、この愛らしいトナカイに告げるのは気が引ける。
 それと。
 嫌ってなどいない、寧ろ——
 などとは。
20120824


 2

「ちゃんと呼んでるって言ってたぞ?」
 チョッパーはナミに報告した。
「えぇ? 呼んでる、って言ったの? ゾロが? サンジ君の名前を?」
「うん。『大丈夫だ』って。おれ、言っただろ? 嫌いなんかじゃない、って」
 どこか得意気なチョッパーを見て、ナミは考える。
 一体何時、呼んでるんだろう。ゾロは、サンジ君の名前を。

 話は、数時間前に遡る。
 ソロとサンジが、いつもの様に喧嘩を始めた。
 刀と、脚。
 威力抜群な互いの武器を、遠慮する事無くぶつけあっている。
 いつだって、原因はつまらない事だ。なのにどうしてあんなに派手な衝突になるのだろう。
 甲板が壊れる前に止めなくては。
 隣では、医学書を捲る手を止めたチョッパーが二人を見詰めている。
 こんなちっちゃな子を怯えさせて。
 ナミは「すぐ止めさせるから、心配しなくて良いわ」と言いながら席を立つ。
「そんなに嫌いなら、近寄らなきゃ良いのに」
 呆れた年長者だ、と小さく呟いたのを、チョッパーが拾った。

「嫌い? ゾロとサンジが? お互いを、か?」
 意外さを隠しもしないあどけなさに、ナミは丸くした瞳を向けた。
「アレは、嫌いなニンゲン同士が出すニオイじゃない。むしろ好きなんだと思うぞ、おれは」
 何言ってんの、このトナカイは。
「ニオイ、って、そんなの、分かるの?」
「おれはトナカイだからな。鼻は利く」
 えへん、と胸を張るトナカイは、とっても可愛い。可愛いけれど、そういう事じゃない。
「好きとか嫌いとかって、ニオイがあるの? それで分かるの?」
「正確じゃないし、正解かどうかも分からないけど…多分あってると思うぞ?」
 チョッパーは、やり合うゾロとサンジを眩しそうに眺めて言った。
「だって、二人共、楽しそうだ」
 そんなものだろうか。
 ナミは首を捻りながら、破壊者二人に拳骨を喰らわせた。

「ねえチョッパー、さっきの話だけど」
 ウソップに手伝わせて船を修繕する年長者二人を眺めながら、ナミは切り出した。
「好きな人の名前を呼ばないなんて事、ある?」
「私、ゾロがサンジ君の名前呼んでるの、聞いた事無い」
「それに、好きな人に、あんな風に突っかかったりするものかしら?」
 チョッパーはナミの言葉に、うんうんと首肯いている。
「確かに、ちょっと心配だよな、あの二人」
「修繕の材料費もバカにならないし」
 ナミの溜息に、チョッパーは少し神妙な顔をした。
「名前を呼ばれないってのは、寂しいもんな」

「でも」
 チョッパーは一転、抜ける様な笑顔を見せた。
「ナミは、おれの名前、呼んでくれるな」
「みんなの名前も呼ぶけど、おれの名前も呼んでくれるよな」
「みんなも、おれの名前を呼んでくれるよな」
 ナミは、ちょっと胸を突かれた。
「当たり前じゃない。私、チョッパーの事、好きよ?」
「みんなも、チョッパーの事好きだもの。当たり前よ」

 チョッパーがニコニコ笑うから、もうそれで良いんじゃないかと、ナミは思った。
20120825


 3

 メリーの修繕を粗方終えると、サンジは炊事をしにキッチンへ、ゾロは鍛錬をしに後甲板へ消えゆき、工具を手にしたウソップは溜息を吐いて修繕個所を撫でている。
 ナミはウソップに近付くと、訊いた。
「ウソップは、ゾロがサンジ君の名前を呼んでるの、聞いた事、ある?」
「あー? ああ、うん、あるなー」
 心ここにあらずの様子で、ウソップは応えた。
「いつ?」
「…いつ?」
 ナミの第二設問に我に返ったウソップは、工具の束を派手に落とした。
「ちょっと、何やってんのよ!」
 危うく金槌に小指の先を詰められる所だったナミは怒鳴った。
「な、な、ななななない! ゾロが『サンジ』なんて、言う訳ない! 聞いた事なんてない!」
 ウソップは散らばった工具を慌てて拾い集めると、脱兎の如くナミの前から姿を消した。
「何よ、あれ」
 腑に落ちない。
 聞いた事があるのは間違いないとして、それは聞いてはいけなかった、という事。或いは、聞きたくなかった、と。
 一人甲板に残されたナミは、先のチョッパーの証言とウソップの態度を重ね合わせて検討した。
 あんまり正解であって欲しくない答ばかりが浮かんで、ナミは困惑するばかりだった。


 工具を仕舞いながら、ウソップは調理中のサンジの後ろ姿を盗み見た。
『サンジ』
 ゾロの掠れた声でプレイバックされる彼の名は、暫くウソップを悩ませたし、今また悩ませている。
 あの夜。
 目なんて覚ますんじゃなかった。喉なんて乾かせるんじゃなかった。何か飲もうと思ったりしなければ良かったし、そのまま寝てしまえば良かった。
 別に、構わない。
 ゾロが、どんな声でサンジの名を呼ぼうと、サンジが、どんな声でそれに応えようと。
 構わないのだけれど。
 歓迎する様なものでもない。
 つまり、そういう呼応だった。

 色香。

 海賊船には誠に似つかわしくない雰囲気を感じ取ってしまって、更にはそれが普段罵り合いやり合っている屈強な男同士から醸し出されている事に、ウソップは困惑していたのだった。

 ウソップが工具をすっかり仕舞い終えラウンジを出ようとすると、ゾロが入って来た。
 サンジが冷蔵庫から飲料を出し、ゾロがそれを受け取り飲む。
 言葉が交わされた様子は無い。殺伐とした様子も、ウソップを困惑させた色気も。非常にニュートラルで、心地良い。
 まあ、こんな昼日中に、第三者が居るのを分かって甘やかな雰囲気を醸し出されても困る訳だが。そんなのは、それこそ深夜の格納庫辺りでやってくれ。
 そこまで思って、ウソップははたと気付いた。
 歓迎されざるべきは、普段の殺伐とした態度の方ではなかろうか。
 静かで穏やかな空気は大歓迎だ。それが、この頼れる男二人が人目を忍んで名を呼び合う結果だとするならば、それもまた歓迎しようではないか。

 すっかり吹っ切れたウソップは、晴れやかにラウンジを後にした。
20120901


 4

「なあ、サンジ」
「どうした、チョッパー?」
 サンジは、灰汁を掬う手を止めて振り返ってくれた。
 それが嬉しくて、チョッパーはくふくふと笑ってしまう。
「名前を呼ばれるって、嬉しいよな?」
「あー、まあ、そうだな」
 サンジはコンロの火を止め、本格的にチョッパーに向き直った。
「おれの名前は、ドクターが付けてくれたんだ。呼ばれる度に、嬉しかったぞ」
「うん、確かに。俺も、ジジィにゃ『チビナス』って呼ばれてたけどよ、たまに『サンジ』って呼ばれたら、なんだか、誇らしい気になったもんだ」
 普段は口汚く罵り合っていたが、畏まれば『オーナー・ゼフ』と呼んだし、『サンジ』と呼ばれた。ジジィ、元気にしてっかな。
 サンジが暫し意識をバラティエへ飛ばしていると、チョッパーはとんでもない爆弾を飛ばして来た。
「ゾロに呼ばれるのも、嬉しいだろ?」
 灰汁を掬ったお玉がサンジの手から滑り落ち、床で派手な音を立てて跳ねた。

 サンジはお玉が床の上で落ち着くのを待ってから、ゆっくり拾い上げた。
「アイツが俺の名前を呼んだ事なんて、あったかなァ?」
 お玉をシンクに置いて、サンジは煙草に火をつけた。
 髪で隠れた、顔の左側をチョッパーに向けて、ゆっくりと煙を吐き出す。
 サンジのそんな様子を、チョッパーは不思議に思った。
「なんだ、サンジは覚えてないのか?」
「うん?」
「ゾロは、呼んでる、って言ってたぞ?」

 サンジは、指の股に挟んでいた煙草をぐしゃ、と握り潰した。
「サンジ! 火傷する!」
 慌てたチョッパーが駆け寄って見上げると、サンジの顔は火がついた様な赤い色をしていた。歯をぐっと噛み締めて、眦を吊り上げ、眉間と鼻には皺を寄せ、鬼の様な形相だ。
 サンジの手が無事なのを確認すると、チョッパーは一目散にキッチンを後にした。逃げるべきだ、と野生の勘が告げたのだ。鍋の具材にはなりたくない。

 甲板で、チョッパーはこの話をした時のゾロを思い起こした。
 確か、普段と殆ど変わらない、けれど、ほんの少し照れた様な、ふっと周りの空気が弛む様な感じだった。安心出来る様な、心が温かくなる様な。
 サンジの反応は、一見正反対。けれど、イヤなニオイは感じなかった。
 やっぱり、ゾロとサンジは『嫌いなニンゲン同士』じゃない。『むしろ好きな』。

 チョッパーは、一見仲が悪そうな二人が好き合っていると確信出来て、嬉しくなった。
 そして、自分の鼻の性能についてちょっと不安になったのは杞憂だったと知れて、やっぱり嬉しくなった。
20120920


 5

「てめぇ、チョッパーに何吹き込んでんだよ!」
 甲板で昼寝をしていると、怒号と共に腹を目掛けて踵落しが降ってくる気配がした。間一髪で避ける。寝惚けながらのこの機敏は、日頃の訓練の賜物だろう。要らぬ訓練だが。
「…何だってんだ?」

「おまっ、お前がっ! お、俺のっ、なま、名前をっ! よぶよぶ呼ぶとかっ!」
 ああ。覚えがある。幾日か前、悲し気な顔をしたチョッパーに責められた気がして、口を滑らせた。
「何時、どんな状況で、かは言ってねぇよ」
「あっったり前だっ!」
 真っ赤な顔のコックは、飽きもせず何度も踵を振り下ろす。勢い、ゴロゴロと甲板を転がる事になった。避けなきゃ内臓が破裂する。

 照れてるだけだ。本気で怒っている訳ではない。だが、そんな事で重傷を負うのは馬鹿馬鹿しい。
 落ちてきた足首を狙い澄まして掴む。腕を引きながら体を起こすと、コックの体を抱き込む形になった。
「何すんだっ! 離せっ!」
 藻掻くコックの耳元で、囁いた。
「サンジ」
 途端に腕の中の体が動かなくなる。
 思惑通りになった事に気を良くして、目の前の耳介をぱくりと口に含んだ刹那、脳が揺れた。
 コックが頭突きを喰らわせたらしい。
 一瞬の眩暈の後我に返ると、腕の中の体は消えていた。

 逃げられた。

 コイツの名は海上レストランで知った。けれど、通りすがりの給仕係の名を呼ぶ機会など無かったし、その必要も無かった。更にそのすぐ後、鷹の目に斬られた。名を呼ぶ余裕も、そんな気も、あろう筈が無かった。
 ナミの島での宴会で一息つき、ルフィがコックとして乗船させたコイツを何と呼んだら良いのか、ふと迷った。ルフィが、ナミが、ウソップが、『サンジ』と呼ぶのを聞いて、それが目の前の男の名だと認識してはいたが、そう呼ぶ気にならなかった。
 今更、と思った。今にして思えば、出遅れた感があったのだろう。皆と同じ、というのが気に入らなかったのかも知れない。甘い感傷だ。

 初めて『サンジ』と呼んだのは、思い余って押し倒し、組敷いた体が暴れたのに業を煮やしたからだった。呼んでみればその三音はすっと胸に落ちた。
 ああ、俺はずっとコイツの名を呼びたかったのだ、と理解した。
 俺の声で呼ばれる自分の名を聞いたコックは、暴れるのを止めた。そして、「ゾロ」と、俺の名を呼んだ。
 サンジの声で呼ばれる自分の名は、甘美だった。
 これまでの、そう長くない航海で培った関係は壊れる、と思った。溺れてしまう、と。

 結果、それは杞憂だった。
 そんな甘いモノに現を抜かしていられる程、暢気に構えて居られる状況ではなかったし、何より、サンジはそう素直な性質ではなかった。俺も同様だ。
 変わった事と言えば、『サンジ』と呼ぶのが、合図になった事。それで二人の関係は、普段のそれとはがらりと変わる。
 だから、相変わらず人前では呼ばない。コックが、『サンジ』でなくてはならない時だけだ。

 いつか、名を呼ばなくなる日が来るかも知れない。逃げられてしまうかも知れないし、逃げてしまうかも知れない。名を呼ぶ事の意味が変わる日が来てしまうかも知れない。
 そうでなくても、俺たちは死線を渡っている。明日の保証など、何処にも無い。

 願わくは、それが杞憂に終わる事を。

『サンジ』と呼ぶ度、そんな風に思う。そして、そんな自分を、嗤いたくなる様な、笑いたくなる様な、くすぐったい気持ちになるのだ。
20120922


 あとがき*20121030
『1』を書いた時点で連作にするつもりは無かったのですが、書き終えてから「鼻の利くチョッパーは、フェロモン的な何かでゾロとサンジの仲を感知出来るんじゃ?」と思ったもので、「何故チョッパーはそんな事をゾロに訊いたのか」という観点から『2』を書きました。
 そしたら微妙に違う話(名前を呼ばれたら嬉しいよね話)になっちゃった。同時に「これはドクターとドクトリーヌにしか名前を呼ばれた事の無かったチョッパーの、加入直後の話だ」と定まりました。
 更に「聡いナミさんが、気付かないなんて事無いんじゃ?」と思ったので、気付くきっかけとなる会話をしてもらおうとウソップに登場願った『3』は、私のウソップ好きが炸裂しました。
この回のあとがき:
後にウソップは、サンジに惚気られたり愚痴られたりして辟易としている所に、嫉妬したゾロの殺気の籠った視線に寿命の縮む思いをして、この日の判断は間違いだったのではないかと思うのであるが、それはまた別の話なのである。(『サンジとゾロに挟まれる、不憫なウソップ』は私の大好物であります!)
 この話に限らず、そんなウソップが居ると思うよ!

『4』では「サンジ君を出さない訳にはいくまい」という思いと、題名からちょっと離れてしまったので軌道修正を意識したら、サンジ君が大層照れ屋さんに書けてしまって(実際にもこんなもんだろうと思っていますが)。
「当然サンジ君はゾロに抗議するだろう」と書いた『5』では「ゾロが(仲間の前で)サンジの名前を呼ばない理由」を考えたらなんだか甘くなった上に、全員出て来ないうちに完結してしまったという体たらく。
この回のあとがき:
ゾロはこんな風にぐずぐず考える子じゃないと思うけど、まあ、それが恋というものだよ。ね?

結局、船長は出て来なかった。(ほら、要らぬ心配はしない子だから。)
ドラム直後なら乗船中の筈のビビとカルーも。(ほら、言うたらお客さんだから。)
 非常に自分に甘い言い訳です。

 裏テーマは『名前を呼ばれたら嬉しい』だったなぁ、と、書き終わって思った次第。

 このゾロはサンジを「思い余って押し倒し、組敷いた体が暴れたのに業を煮やして名前を呼んだ」らしいので、その時の事もいずれ書きたい、と思っていました。『寒い夜』がそれになります。