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バレンタインデー

 正月気分の抜けた街は、受験生応援気分を駆け抜け、バレンタインデー気分に突入する。

 バレンタインデー。

 女性が、主に好きな男性や、お世話になっている男性に、チョコレートを贈る日。
 少なくとも、日本では。
 最もチョコレートの甘い匂いが漂う日であろう。

 日本に暮らす日本男児、魅録にとって、その日は、たいした意味を持つ日では無かった。

 彼の友人、現在は日本で暮らすが、父親の仕事の都合で世界各国を転々としており、且つ、色恋沙汰に多大なる関心を抱く美童にとって、その日は、非常に忙しい日となる。
 日本の婦女子からは多くのチョコレート諸々を贈られ、海外に住む婦女子からは事前に手配しておいたカードと花束のお礼の電話がひっきりなしに掛かってくる。
(何せ彼は「世界の恋人」なのだ、それが例え自称であれ。)
 しかし彼は、この多忙を厭わない。寧ろ愛している。彼にとっては、勲章なのだ。

 また別の彼の友人、こちらは女性であるが、多くの女性ファンを持つ大食漢の悠理にとって、その日は、パラダイスである。
 普段から彼女のファンによって、彼女には大量の食品が届けられている。
 彼女はそのほとんどを平らげ、幸福感に浸る。彼女のファンにとって不幸なのは、彼女が、差し出された食品については非常に良く記憶しているのに、差し出した人物については一切関心を抱かない事であろう。まさに、花より団子。
 しかし、彼女は女性であるのだし、彼女のファンにしても、彼女との恋愛関係を望むケースは極めて稀で、その多くが彼女に喜んでもらう事を目的としているので、彼女の幸福は、途絶える事が無い。
 そんな彼女にとって、普段食品を差し入れてくれる人々からのみならず、普段は積極的にアピールしてこない人々からもチョコレートを貰えるその日は、「いつもより多くて甘くて美味い!」嬉しい日なのである。

 彼のまた別の女性の友人、彼女にとっては「団子より花!」であるが、兎にも角にも玉の輿を目指す可憐にとって、その日は、目指す将来への布石を打つ、重要な日である。
 これは!と見定めた有望株に、いかにも本命用の高級チョコレートや、本気を窺わせる手作りチョコレートを、相手の趣味嗜好にぴったりと沿う様にあてがい、意味深なカードを添えて配る。大抵の男性は、この餌に掛かる。彼女に返ってくるのは、一ヶ月後のホワイトデーに贈られるジュエリーだとか、デートの誘いだとかだ。
 また気配り上手な彼女は、年配の男性諸氏にもチョコレートを謹呈する。こちらは、敢えて義理だと分かる物だが(そうしないと、彼女の射程範囲外の男性に付き纏われてしまうからだ)そこそこのチョコレートに気の利いたカードを添える。そうする事で彼女は「ご存知の将来有望株をご紹介下さい」と言外にアピールする事になる。その手の謀略に関して、彼女は抜かりない。

 もう一人の彼の女性の友人、野梨子にとって、その日は、家を空ける事の多い父親が、可愛い一人娘からの贈り物に相好を崩す日でしかない。
 純和風の世界に暮らす彼女にとって、横文字のイベントは大きな関心を引く物ではないのだ。

 彼の友人、もう一人は男性であるが、女性からももてない事はないが、寧ろその熱心さにおいては男性からの想いの方が遥かに強いと推測される清四郎にとって、その日は、ゴミが増えるだけの日である。自らを強く律する彼にとって、多くの嗜好品は望まない所であるし、贈られたチョコレートが手作りであった日には、一切手をつけない。「何を入れられているか分かった物ではない」とは彼の弁。一体誰が何を入れると言うのか、普段の凶行が忍ばれる、と彼の本性を知る彼の友人らは思うのだが、それを本人に伝えるような命知らずは居ない。

 このような友人に囲まれている魅録にも、幾つかのチョコレートは贈られる。

 大抵家を空けている母親からは、父親の分と一緒に、現在の彼女の居場所を推測させる高級チョコレートが送られてくる。
 長年彼の身の回りの世話を焼いてくれている家政婦からも、申し訳程度のチョコレートが贈られる。
(ちなみに彼女からのチョコレートが彼にとってのファーストバレンタインであった。)
 いつもは接触して来ない同級生や下級生からも、遠慮がちにチョコレートを渡されるし、机やロッカーからは幾つかの箱が転がり出てくる。
 特にチョコレート好きでも、甘い物好きでもない彼に贈られたチョコレートは、幾つかが彼の口に入り、その他は大食漢の友人や、家政婦のおやつになる。
 想いを寄せられて嬉しくない訳ではないが、そこから何かを発展させようという気になる事はなかった。女は面倒、という思いは根強く、それを覆す程の情熱を彼に持たせるだけのものは、彼にはまだ訪れていなかった。

***

 最近、悠理がやけに笑顔だ。
「何か良い事あったのか?」
 俺が聞くと、悠理は満面の笑みで答えた。
「だって、もうすぐバレンタインデーじゃん?」
 ああ、それで。
 俺は合点がいった。
「贈られるチョコレートの事、考えてんのか」
「まあね〜」
 悠理はくふふ、と気味の悪い忍び笑いを漏らした。
 ああ、それで。
 美童と可憐が忙しそうにしているのにも合点がいった。
 美童はデート時間の調整と、世界中の恋人に花とカードを贈る手配をしているんだろうし、可憐は玉の輿の為の撒き餌を準備しているんだろう。
 清四郎と野梨子の和風コンビは、特に変わった様子はない。
「成る程ね」
 俺は呟いて、溜息を一つ、漏らした。

「どうしたんです? 溜息なんて吐いて」
 それまで新聞に目を通していた清四郎が、俺に視線を向けた。
「別に…。溜息なんて、出てた?」
「ええ。珍しいですね」
「さあ? 甘い空気に侵略されるのが、嫌なのかもな」
「侵略ですの?」
 宗旨替えをしたのか、これまではゴミ箱に直行だったラブレターに目を通していた野梨子も会話に加わる。
「うん…。そんな感じだ」
 俺たち三人は苦笑いして、幸せそうにしている三人を見た。

「野梨子は、今年もおじさんにだけですか?」
 清四郎が野梨子に問いかける。
「チョコレートの話ですの?」
 野梨子が清四郎に聞き返す。
「最近、ラブレターを読む様になったでしょう? お眼鏡に適う相手でも居るのかと思って」
 清四郎が新聞に目を落としたまま答えると、野梨子も答えた。
「…父様にだけですわ」
 …その間は、何だ?
 新聞が、がさりと音を立てた。
 清四郎は、挑むような目つきをしている。
 誰に、何を挑むというんだ?
「あら、清四郎は私からのチョコレートが欲しいんですの?」
 野梨子がその目を往なす様に言った。
「いえ、僕は特にチョコレートを欲しいとは思いませんよ?」
 清四郎は澄ましている。
「では、何が欲しいのですかしら?」
 野梨子は可笑しそうに言う。
「ふむ…。ここは、僕は、に重きを置いて欲しかったですな」
 清四郎も可笑しそうに対応している。
 ふざけているのか?
 二人のこういう遣り取りを目にする度、二人の繋がりは深いな、と思う。
 或いは、二人の頭脳に俺がついて行けないだけなのか?
 いずれにせよ、俺にはよく分からない。分かるのは、俺が、何となく、胸にざわつきを感じてる事だけ。
 俺はこんな時、どうして良いのか分からなくなる。
 二人の間に割って入るのは、自分が惨めになるだけな気がして、躊躇われる。
 どんな理由で「惨め」などと卑下た考えが出てくるのかも、俺には分からない。
 こんな時ばかりは、自分が嫌になる。
 劣等感か?
 仲間に対して、そんな感情を抱くとは、笑止。
 俺は情けない気分で窓の外を眺めた。


 バレンタインデー、当日。
 空気が色めき立って見える。
 登校中、幾つか渡されたチョコレートと覚しき包みを、俺はロッカーに押し込めた。
 ロッカーに入っていた幾つかも、そこに置いたままにした。
 教室に入り、机に入っていた幾つかと、授業の合間に渡された幾つかも、ロッカーに入れ、俺は気が進まないまま生徒会室に向かった。
 今日、顔を出さないのは、まずい気がしたのだ。
 案の定、そこは、チョコレートの甘い匂いが充満していた。悠理と美童が大量に持ち込んだチョコレートが、机の上に溢れ返っていた。
「甘いな…」
 俺が呟くと、野梨子は「ふふ。そうでしょう?」と言い、緑茶を出してくれた。
 清々しい香りが、俺の鼻をくすぐった。
 胸に湧く、一服の清涼感。
「サンキュ」
 俺は目を閉じて、香りを胸いっぱいに吸い込んで言った。
「…魅録は、頂きませんでしたの?」
 野梨子が机の上の甘い山を見てから、不思議そうな顔をして尋ねてきた。
「幾つか貰ったけど…ロッカーに押し込んできた」
「ほう。押し込まなきゃ入りきらない程、大量に貰ったんですな?」
 清四郎がにやにやと言う。
 清四郎の前にも、悠理や美童程ではないにしろ、山が出来ている。
「お前程じゃねぇよ」
 俺は言って、茶を飲み干した。
 悠理が、期待を込めた目で俺を見ていた。
「今年は、くれないの?」
 涎を垂らして、両手の掌を上に向けて広げている。
「…全部やるよ。ロッカーに入ってるから。今日中に持って帰ってくれ」
 俺が悠理の掌にロッカーの鍵を乗せて言うと、思いもしない言葉が、思いもしない所から、思いもしない強い調子で聞こえてきた。
「そんなの駄目ですわ!」
「野梨子?」
 俺は吃驚して目を向けた。
「いくらチョコレートが苦手でも、見てあげるくらいはなさいませ!」
 あまりの剣幕に、悠理もきょとんとしていた顔をすぐさま引き締めた。
「そーだよな。あたい、持って来てやるよ!」
 扉に手をかけて言った悠理に、可憐が慌てて紙袋を手渡した。
 脱兎の如く去った悠理は、チョコレートで満たした紙袋を両手に抱え、疾風の様に舞い戻ってきた。
 それを見た美童は、不服そうに呟いた。
「魅録だって、結構貰ってるじゃない」

 こうして俺は、皆の、いや、野梨子の前で、チョコレートの一つ一つを検分していく羽目に陥った。





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