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バレンタインデー

(承前)

 美童と可憐は、早々にそれぞれの相手とのデートに行ってしまった。
 清四郎も用事がある、と先に帰り、悠理も「母ちゃんが、早く帰ってこいって」と言い、俺のチョコレートを名残惜し気に眺めながら、自らの大量のチョコレートを背負って帰って行った。
 野梨子は、俺が包みを開けるのを、黙って見ていた。
 時々茶を啜り、俺にも茶を淹れ直してくれながら。

 最後の一つを開けた時、空は夕焼けに染まっていた。
「…終わりました」
 俺はかしこまって野梨子に伝えた。
「お眼鏡に適う贈り主は居まして?」
 野梨子はにっこり笑って言った。
「いや、気持ちは有り難いと思うけど、申し訳ないけど、俺には応えられそうにない」
 俺は、本心を言った。
「そうですの」
 野梨子は、それだけ言った。
 チョコレートは開封しながら幾つか摘んだが、全てを胃に収める事は出来そうもない。
「野梨子も食べる?」
「いいえ、結構ですわ」
 野梨子は、怒っている訳ではなさそうだったが、きっぱり言って、一つも手をつけなかった。
「…そう」
 俺はそれ以上勧める事はせず、広げた包みを片付けていった。

 全部が終わる頃には、空は夜になり始めていた。
「そろそろ帰るか」
「ええ」

 自然と、足は野梨子の家に向かった。
 こういう時、大抵、少なくとも一度は遠慮する野梨子も、暗くなり始めている所為か、素直について来る。

「なあ、野梨子」
 俺はチョコレートの開封中、ずっと気になっていた事を聞く事にした。
「何ですの?」
「どうしてさっき、あんなに怒ったんだ?」
「私が何時、怒りました?」
「悠理に、全部やる、って言ったら、駄目だ、って」
「……」

 それから暫く間が空いたが、俺は辛抱強く待った。
 一ブロック程進んで、野梨子が口を開いた。
「何となく…駄目な気がしたんですの。強く言って、ごめんなさい。余計なお世話でしたわね」
「いや、言ってもらって良かったよ。お陰で、とんでもない礼儀知らずにならなくて済んだ」
「そう言っていただけると、救われますけど…。こんなに遅くなってしまったし、おまけに遠回りまで…」
「それこそ、良かったよ。茶は美味かったし、こうして…」

 こうして?

 黙ってしまった俺に、野梨子が先を促す。
「こうして…、野梨子と歩けるし?」
 俺は茶化して、心に浮かんだ事を言った。
 俺は、こうして野梨子と歩ける事を、良かった、と思っているらしい。
 そんな風に思った自分が、自分でもよく分からなかった。
「ふふ。冗談ばっかり」
 野梨子は小さく笑って言った。
 そうか。冗談と捉えたか。
 落胆している自分に気付いて、吃驚した。
 どうやら…冗談なんかじゃないらしい。
 再び黙ってしまった俺に、野梨子が心配顔を向けた。
「どうかしまして?」
「いや、…いや、うん。どうかした。俺、…冗談じゃなく、本気で、野梨子と居られるのが、嬉しいみたいだ」
 独り言の様に呟く俺を、野梨子はきょとんとして見ている。
「それって」
 俺はいきなり野梨子に向き合い、野梨子の肩を掴んだ。
「俺は野梨子が好きって事かな?」
 目を見開いた野梨子は、直ぐに目を伏せた。
「そんな事…私に訊かれても分かりませんわ」

 俺は考えた。
 どうしてチョコレートを開く気になれなかったか。
 どうして生徒会室に顔を出したくなかったか。
 どうして野梨子と二人で居る事を嬉しく思うのか。
 俺はこれからどうしたいのか。

 答えは、一つだった。

 俺は、野梨子の肩に置いた手を背中に滑らせ、野梨子を胸に抱いた。
 野梨子の息を呑む音が聞こえた。
「好きだ。俺は、野梨子を好きだ」

 暫くそのままで居た。
 しかし、野梨子は何も言わない。
 不安が、高揚感を落ち着かせた。
「野梨子?」
 俺は恐る恐る尋ね、腕の力を弱めた。
 野梨子は、涙を流していた。
 俺は動転した。
「あ…ごめん、あの、その」
 しどろもどろになる俺に、野梨子は首を横に振った。
「違いますわ。違うんですの。これは…嬉し涙ですわ。私、嬉しい、って思いましたの」
「それって…」
 俺は、信じられない気持ちだった。
「野梨子は俺を好きって事?」
 恥ずかし気に目を伏せた野梨子は、俺に涙で潤んだ大きな瞳を向けた。
「ええ。そうですわ」
 俺の顔がだらしなく弛むのを、野梨子は見ただろうか。
 再び抱き締め、野梨子の視界を奪った方が早かったら良いのだけれど。

 もうすっかり夜だった。
「魅録」
 野梨子のくぐもった声が聞こえた。
 俺は腕の力を弛めたが、野梨子は俺の胸に顔を埋めたままだった。
「魅録は、チョコレートはお好きじゃないでしょう?」
「まあ、好物って程じゃないけど」
 野梨子のくれるものならば、と言おうとしたが、野梨子の方が早かった。
「私、チョコレートは用意してませんの」
「…ああ、知ってる。おじさんにだけ、なんだろ?」
 少し、がっかりした。
「ですから…」
 野梨子はそう言うと顔を上げ、俺の肩にその小さな手を置いた。
 突然の事に俺が重力に従って膝を折ると、野梨子の顔が俺の顔に近付き、俺は頬に、温かく柔らかい感触を得た。
 野梨子は素早く手を下ろし、進行方向を向くと
「バレンタインデーですもの」
 と恥ずかし気に言った。

 俺の心に満ちる気持ち。これは「愛おしい」。
 俺は野梨子の手を取り、前に進んで言った。
「ホワイトデーをお楽しみに」
 にっこり笑うと、野梨子は一瞬目を見開き、笑顔を見せた。



*おまけ*

「くふふー」
 翌朝登校すると、悠理が気味悪い笑顔で近寄ってきた。
「何だよ? チョコか? まだ残ってるから、欲しかったら家に取りに来いよ」
「にししー」
 猶も不気味に笑っている。
「何だよ?」
 昨日から続く幸せ気分で、俺は寛大であった。
「見ちゃった」
「何を?」
「き・の・う」
「昨日、何見たんだよ?」
 昨日という単語に、頬が弛む。
「やるじゃん。良かったな」
「だから、何が?」
「の・り・こ」
「!!!」
 俺は一気に赤面し、しどろもどろになった。
「み、見たって、…な、何、いつ、ど、どこ?」
「昨日の夜ー、野梨子ん家の近くでー、野梨子と魅録がー、ぎゅう、って」
 そう言って悠理は、自分の腕で自分の体を抱き締めた。
「な、何で…?」
「清四郎は、そこは見てなかったみたいだよ。あたいも言わないからさあー」
 ん? 清四郎?
「清四郎と一緒だったのか? おばさんに早く帰れって言われてたんじゃなくて?」
 悠理の顔が、一瞬にして凍った。
「あー、えーと、そう、なんだ、けど、…あれ?」
 俺は、ピンときた。形勢逆転。
「ふーん。清四郎と居たんだ。二人で。へえー。バレンタインデーに、ねえ」
 悠理の顔が、赤くなったり青くなったりする。
 これはもう、当たりだ。俺は畳み掛けた。
「嘘まで吐いて、ねえ」
「嘘じゃないやい! 母ちゃんに言われてたのは本当だもん! 早く帰ったもん!」
 悠理が慌てて否定する。
「へえー。じゃあ、一旦帰ってから、清四郎の所に行ったんだ。わざわざ」
「う、…うん」
 悠理は真っ赤になって俯いた。
 悠理が、ねえ。清四郎と、ねえ。
「いつからだよ?」
「うー」
 悠理は目を白黒させている。
「ちゃんと渡せたのか?」
「う、うん」
「良かったな」
「…うん」
 悠理は、ちゃんと女の子の顔を、していた。


 何はともあれ、Happy Valentine's Day !




あとがき

 2008年1月16日に書いたものに、加筆修正。この長さのものを一日で書いたんだ、と我が事ながら吃驚。暇だったんだか、集中力があったんだか。

 バレンタインデーと言えば、内気で、面と向かってチョコレートを渡すなんて出来ない!な女の子が、こっそり下駄箱にチョコレートを忍ばせる訳ですが(そうなの?)、そして「食べ物を靴と一緒にするのは感心しませんね」等と清四郎に小言を言われたりする訳ですが(そうかしら?)、聖プレジデント学園には上履き制度はありませんので(校内でも下足のままよね?)、当然下駄箱はありません。その代わり、個人ロッカーがあります。当然鍵付きですが、ポスティング出来る様になってる筈!(そうでなきゃ困るわ。ラブレターは入ってるしね)
 内気なお嬢さんたちは、こっそりロッカー室に忍び込んで、薄い箱のチョコレートを、ロッカーに入れるのだわ!ロッカー室は更衣室も兼ねていて、当然男女別になっていて、女子が男子ロッカー室に入るなんて以ての外なんだけど、見張りを立てたり、気弱な男子生徒に頼んだりするのだわ!
 悠理が魅録のチョコを取りに行った時も着替えてる男子が居たけど「悪いな!」と事も無げに言った悠理に「剣菱さんだしな…」と抗議される事もなかったんだわ!
 等と、妄想膨らむバレンタインネタです。

 野梨子は貰ったラブレターを読みもせずに捨ててしまう、とんでもなく礼儀知らずなお嬢様だった筈ですが、自分の事を棚に上げて何でしょう、この居丈高な物言いは。魅録だって「お前だって貰ったラブレター、読まずに捨てるくせに」とか言っちゃうだろう、それは。可憐辺りが嗜めちゃうかも知れない。そうするとややこしい事になるなぁ…と言う訳で、宗旨替えして目を通す事だけはするようになっていただきました。その辺りの事情についても、是非書きたい所です。(でも「とんでもない礼儀知らず」とか言ってるな、魅録。野梨子には嫌味に聞こえたかしらね)




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