新聞屋さん
・現代パラレル ・新聞販売店勤務ゾロ、顧客サンジ ・彼らの職業について何の知識も無いまま書いています 




 引越しの日。
 新居に着いてみると、郵便受けに朝刊が入っていた。
 それと、メモ。

『302号室 サンジ様
 お引越しおめでとうございます。
 本日より、どうぞよろしくお願い致します。 青海新聞』

 新聞は、青海新聞と決めている。
 幼少時から馴染んでいるというのもあるが、何よりも、お料理コーナーの充実が素晴らしい。
 一度勧誘員に負けて他紙に浮気をした事がある。
 ダメだった。お話にならない。
 三ヶ月だけという約束だったのに、その後もしつこく勧誘してきたのもいただけない。
 それ以来、誰が何と言おうと青海新聞一筋である。

 だから、そんなメモなんか無くたって、ちっとも構わなかったのだ。
 構わないのだけれど。
 その手書きの文字は、とても好ましいものだった。
 棄ててしまう気になれなくて、何となく、飾り棚に置いたままにした。
20120826




 月末。夕食時。チャイムが鳴る。
「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」
「はいー」
 一応返事をし、財布を持って玄関へ。鍵を開け、ドアを開ける。
「幾らでしたっけ?」
「3925円になります」
 財布を漁る。そこまで大量の小銭は無い。
「すいません、これで」
 五千円札を出す。
「はい、ありがとうございます」
 新聞屋さんは五千円札を受け取って、ウエストポーチに入れる。その手で千円札を一枚と、小袋を一つ取り出す。
「千円と、75円、です」
 差し出した俺の掌に、千円札を乗せ、その上に透明な小袋を乗せた。

 その小袋には、五十円玉が一枚、十円玉が二枚、五円玉が一枚入っている。そんな小袋が、そのウエストポーチには幾つも入っているようだ。
 彼が、ちまちまと詰めたのだろうか。あんまり器用そうじゃない太い指。勢い込んで袋が裂けたり、小銭が転げ落ちたりしたんじゃないだろうか。
 想像して、微笑ましく思う。勝手に。ちょいと失礼か。

 続けて、領収書とサービス誌と新聞袋とゴミ袋を渡された。
「ありがとうございました」
 新聞屋さんは、軽く頭を下げ、ドアから一歩遠ざかる。
 俺は「お疲れ様です」と言って、会釈してからドアを閉めた。
20120827




 帰路、買い物をして支払いの際、たった3円足りないばかりに、千円近い小銭で財布が膨れる事となった。

 月末、夕食時のチャイム。
「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」
 おお、今日はおつり無しのぴったりで支払える。

「ええと、三千、」と言って、まず千円札を三枚渡す。
 それから「九百、」と言って五百円玉を財布からつまみ上げて見せると、新聞屋さんは掌を上に向けて差し出した。
 その上にまず五百円玉を一枚乗せ、「一、二ィ、三、四、」と数えながら百円玉を四枚掴み、一枚ずつ五百円玉の上に落とす。
「二十、」十円玉二枚を同様に、最後に五円玉を一枚、「五円。」と言いながら。

「丁度、頂きます」
 新聞屋さんは、小銭が乗った掌を一旦握り、ウエストポーチに滑り込ませる。中で手を開いた様で、じゃら、と金属音がした。札を握る手もポーチの中へ。
 それから手渡される、領収書と、サービス誌と、新聞袋と、ゴミ袋。
 交わされる会釈と、「ありがとうございました」と「お疲れ様です」。

 毎月同じ人が来るんだな。
 閉じたドアの前で、ぼんやりそう思った。
20120828




 月末、夕食時のチャイム。
「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」

 今日は二千円札が二枚と、十円玉二枚と五円玉一枚が、有る。
 二千円札なんて、嫌がられるだろうか。でも、普段の買い物に使うのは気が引けて、二千円札は溜まる一方だ。正当な金なんだから文句は無かろう、使ってしまえ。
「四千円と、二十五円」
 と、若干恐縮しながら渡すと、新聞屋さんは二千円札を凝視した。
「これで払われたの、初めてです」
 新聞屋さんは二枚の二千円札を擦って見せた。頬が上がっている気がする。

 嬉しいの? 二千円札が? 子供なの?

「おつりです、百円」
 小銭が種別に入ったケースから百円玉を一枚取り出して、差し出した俺の掌に乗せる。
 指が、掌の真ん中に触れた。
 乾いて、温かい。

 領収書、サービス誌、新聞袋、ゴミ袋。
「ありがとうございました」「お疲れさまでした」
 会釈。

 ひと月前と一緒。多分、来月も一緒。
20120829




 月末、夕食時、チャイム、「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」。
 二千円札を、二枚。
 差し出した掌に乗せられる、透明の小袋。おつりの75円。掌の真ん中に触れる指。

「寒くなりましたね」
 指が触れたまま、新聞屋さんが言う。
 世間話だ。当たり障りの無い、気候の話。
「配達もしてるんですか」
「はい」
「これからの時期は、寒いし暗いし、大変ですよね、一層」
 指が触れたまま。
 当たり障りの無い労いの言葉に、新聞屋さんは「いえいえ」と緩く頭を横に振った。

 領収書、サービス誌、新聞袋、ゴミ袋。
「ありがとうございました」「お疲れさまでした」
 会釈。

 ふた月前に貰った小袋が、手つかずのまま取ってある。引越しの日に入っていたメモの上に、置いてある。理由なんて考えもしなかったけど。
 その隣に、今日のおつりを置く。
 彼が作っているのだろうか。あの指で。
20120830




 月末。マンションの外廊下に辿り着くと、新聞屋さんが二つ隣の部屋で集金をしていた。

「クレジットカード払いになさいませんか」
「サービス悪くなるんじゃない?」
「そんな事ありませんよ、カード会社のポイントも溜まりますし」
 そんな会話の後ろを通って、自室に向かう。

 へえ、クレジット。集金の手間が減るしな。販売所で目標何件、とか有るのかもな。あの人の成績に関係あるのかな。断るのは可哀相かな。でも、カード払いじゃ嫌だな。いや、何となくさ。

 玄関で、チャイムが鳴るのを待っているのは待ち構えるみたいで嫌だ、と思い、靴を脱いで廊下を歩いた。インターフォンの前に着いた時、チャイムが鳴った。
「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」
「はーい」
 玄関に取って返し、一万円札を出す。
 ウエストポーチからおつりを用意している最中「今、お帰りですか?」と訊かれた。
「ええ、今日は、たまたま。いつもはもっと、早いんですけど」

 五千円札と千円札を一枚ずつと、透明の小袋を掌に乗せられる。
 領収書、サービス誌、新聞袋、ゴミ袋。
「ありがとうございました」と言って会釈。
 カード払いを勧められるものだとばかり思っていたのに、そんな話は一切せずに帰ろうとするから、いつもの動作が出来なかった。
 変な間を空けた俺を、新聞屋さんが不思議そうに見た。
「あ、いや、お疲れ様でした」
 会釈してドアを閉める。

 カード払いにしたい訳じゃないのだから、そんな話はされなくて良いのに。
 どうしてカード払いを勧めないのか、その理由が気になった。
 メモの上に三つ並べたおつりの小袋を見て、どうしてカード払いにしたくないのか考えた。
 小袋もメモも、答えを教えてはくれなかった。
20120831




 チャイムが鳴った。
「こんばんは、青海新聞です」
 今日はまだ月末じゃない。が、習慣で財布を掴んでドアを開けると、俺の手の中の財布を見た新聞屋さんは言った。
「あ、今日は集金じゃなくて、契約が今月で切れますので、継続をお願いに」
「ああ、そうですよね、まだ集金には早いですよね」
「六ヶ月、お願い出来ますか」
 次の半年も、彼が集金に来る。
「ええ、良いですよ」
「じゃあ、ここにサインを」

 差し出されたペンを受け取る時。
 差し出された伝票に手を添えた時。
 書き終えてペンを返す時。
 手が触れた。

「サービス品、この中から三つ、選んでください」
 油だとか洗剤だとかが載ったチラシを見せられる。
「じゃあ、これを二つと、これ」
 洗剤を二つと、トイレットペーパーを一つ。
「用意ができたら、お持ちしますんで。ありがとうございました」
 会釈。
「よろしくお願いします」
 会釈。

 ドアを閉じた手が目に入った。
 温かく、乾いた感触を反芻しかけた。
 何考えてんだ。
 ぎゅ、と手を握って、頭を振った。
20120903




 図書館に用が有って普段通らない道を通ったら、そこに青海新聞の販売店が有った。中では何人か、作業している。

 あの人も居るのかな。
 店内をさりげなく覗きながら、心持ちゆっくりと歩く。
 居た。
 目が合い、ちょっと吃驚した顔をされた、気がした。それから、ちょこんと会釈。
 え? 顔、覚えられてる? いや、まさか。地域に根ざした商店だ、目が合ったら挨拶、商売の基本。それだけ。それだけに決まってる。
 軽く会釈をした。人間関係の基本。上げた頭を彼に向ける事なく歩を速めた。
 もし目が合ったりしたら居たたまれないし、既にこっちを見ていなくても居たたまれない。
 居たたまれない?
 何でそんな風に思うのか、と思って、そんなの自意識過剰が恥ずかしいだけだ、と思い至る。
20120905




 チャイムが鳴る。
「こんばんは、青海新聞です」
 まだ月末じゃない。

「サービス品お持ちしました」
 差し出される洗剤と、トイレットペーパー。
「ありがとうございます」

 この間、目、合いましたよね?

 そんな事、訊けない。
 洗剤とトイレットペーパーを介在して、両手が繋がる。
 その間、しっかりと目が合う。
 見上げも、見下ろしもしない視線の位置。同じくらいの身長なんだな。
 新聞屋さんの体躯はがっしりとしているから、随分大きい人なんだと思っていた。

 ものの数秒とはいえ、物の受け渡しにしては長い時間静止していた気がする。
 不審に思われたら嫌だ。
 にっこり笑って、受け取った腕を引いた。
 新聞屋さんの腕は、それがぴんと伸びるまで、品物に添えられていた。
20120906




 新聞販売店を覗く。
 居た。
「あの、来週一週間、新聞の取り置き、お願いしたいんですけど」
「はい。取り置き、ですね。月曜日の朝刊から日曜日までで良いですか?」
 ノートに、メモをしながら。
「取置いた分は、再開時にお届けしますか?」
「はい、お願いします」

『月曜~日曜、お取り置き、翌月曜に配達』
 意外と流暢なこの字は、あのメモのものと同じ字だ。
『受付:ロロノア』
 へえ、ロロノアさん。

『メゾンオールブルー、302号室、サンジ様』
「え?」
 迷い無く綴られた俺の個人情報に、思わず声が出た。
 俺、名乗ったっけ? マンションと部屋番号、言ったっけ?

「え? …あ、部屋、302号室じゃありませんでしたっけ?」
「いや、合ってます」
 合ってるけど。あのマンション、確か300世帯くらいあると思うんだけど。世間的なシェアから考えて、100世帯くらいは青海新聞だと思うんだけど。それだけの数、顔と名前と部屋を一致させるのって、結構難しいと思うんだけど。顔会わす機会なんて、月に一度の事なのに。
「…覚えてるんですか?」
「はい」
 事も無げに言う。
「全世帯?」
「いや、まさか」
 え?
「あ」
 あ?

「いやあの、珍しいんで、その、あのマンション、単身者向けじゃないのに、若い男の人で、その、集金の時いつも居てくれるし、その、語呂合わせ的にも」
 随分早口だ。珍しい、気がした。いつももっと、どっしり喋る人だと思ってた。知ってる訳じゃないのに。何か言い訳してるみたいな。
 ん? 
「語呂合わせ?」

「ええ、3、0、2、で、サ、ン、ジ、さんって」
「ああ」
 ちょっと、拍子抜けした。気を張る必要がどこにあったのかは、知らないけれど。
 そうだ。珍しいから。珍しいものは、記憶に残りやすい。他に特別な理由なんて、無い。有る筈が無い。
20120907


10

 チャイムを押す。反応を待つ。…遅い。不在か? 珍しい。
 出直すか、と荷物を手に持ったら『はい』とインターフォン越しの声が聞こえた。
 いつもと違う。しかしこちらからはいつもの通り。
「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」
 いつもより多く待つ間に、何かを落としたかぶつけたかした様な、派手な音が聞こえた。何があった?
 やっと開いたドアの向こう、いつもと違う雰囲気の家主が、黙って財布を突き出す。
「…どうかしました?」
 勢いで財布を受け取ってしまうと、家主は目を瞑り壁に寄りかかった。そのままずるずると座り込みそうになるのを、つい、抱きとめた。
 熱い。
「熱?」
 家主は億劫そうに目をこちらに向けると、「んー」と言って俺の肩に頭を乗せた。
 熱い。
「布団、どこだ?」
 家主を抱き抱えたまま慌てて靴を脱ぎ、家主が僅かに腕を上げた先に歩を進める。

『お客様の家に上がり込んではいけません』
『お客様と身体の接触をしてはいけません』

 仕事を始める時、所長に言い含められた。今でもそれは守っている。どれだけ誘われても。死守。
 けれど。
 これは緊急事態だから。
 こいつは男だし。
 元々、人妻に手を出してトラブルになったら困る、といった趣旨だった筈だ。うん、何も問題ない。発熱して意識が朦朧としている客をほったらかした方が、人道的に問題だ。だから俺は間違ってない。

 ベッドを見つけて、その上に寝かせる。生乾きになったタオルが生温くなっていて、枕元に染みを作っていた。もののついでだ、台所へ行き、タオルを濡らして額に乗せてやる。家主は既に寝息を立てていた。
 ダイニングテーブルの上に、今日の朝刊と、家のものらしき鍵があった。その脇に、渡された財布を置く。勝手に金を抜く訳にはいかない。集金は後でも構わない。戸締まりもしない訳にはいかないし、容態も心配だ。朝刊の配達ついでに様子を見よう。そう考えて、鍵を預かる事にした。
 一応、メモを残しておく。
『鍵、お預かりします。朝刊の配達時、様子を見に伺います。青海新聞、ロロノア』

 もう一度寝息を聞き、苦し気でない事を確認して帰ろうとした時、ふと、壁に設えられた飾り棚が目に入った。そこには、俺がおつりで渡す75円袋が3つ、並んでいた。入居の日に初めて配達した新聞と共に入れたメモを座布団にして。
 何で?
 埃一つ被っていない。こざっぱりした部屋ではあるが、それにしても。
 脈動が激しくなった。これは、動揺だ。

 朝刊の配達を終え、302号室を訪ねた。静かに鍵を回し、そっと室内へ。ベッドの上の家主は、穏やかに寝ていた。熱もだいぶ下がったみたいだ。一安心。
 先に残したメモは、残した時のままだった。恐らく、見てもいない。メモを差し替える。
『後日改めて集金に伺います。鍵は施錠して、ドアポケットに入れます。お大事に。青海新聞、ロロノア』
 帰る時ちらりと見た飾り棚には、やっぱり75円袋が3つ、メモを座布団にして並んでいた。
20120913


11

「ご迷惑おかけしまして」
 302号室の家主が、販売店にふらりと来た。
「これ」
 封筒を差し出す。
 中身を確かめると、3925円。
「わざわざありがとうございます」
 領収書を用意する。サービス誌と、新聞袋と、ゴミ袋も。
「もう大丈夫なんですか」
「はい、すっかり」
 貰うものを貰って渡すものを渡してしまえば、もうする事はない。
「滅多に熱なんて出さないんだけど。こないだは、急で。看病してくれる人呼ぶ間もなくて」
 ぽつりぽつりと話しだす。
 立ち去り難く思ってくれてるんだろうか。
 そんな風に思った事と、話の内容に動揺した。
「呼べば看病しに来てくれる人、居るんだ」
 うっかり敬語が飛んだ。
 ぽかんとされた。
「あ、いや、…見栄張った」
 一瞬情けない顔をして、直ぐに堪えきれない様に吹き出した。俺の表情も、同じだったと思う。ワンテンポ遅れて。

 手にしていた紙袋を渡された。
「お礼。嫌いじゃなかったら、食べて?」
 言いながら出て行った。
 店で買ったものみたいな包装じゃないそれは、やたらと美味い焼き菓子だった。
20120914


12

「こんばんは、青海新聞です。集金に伺いました」
 家主が五千円札を出す。釣りを渡しながら、礼を言う。
「うまかった、です。あれ」
「そう? 良かった」
 にぱ、と音がしそうな笑顔。
「甘いの苦手だったら悪いな、と思ったんだけど」
「甘ったるいのはアレですけど、良い甘さでした。ひょっとして、手作りですか?」
「うん。俺、パティシエだから」
「パティシエ?」
「そう。お菓子作る人」
「ああ、プロの菓子職人」
「うん。駅向こうのパティスリーバラティエって店で、作ってる」
「道理で。凄く美味しかった」
 花が、綻ぶような笑顔。

 花、など。
 男に使う形容詞じゃない。知ってる。けれど、丁寧に扱わねば散ってしまう、と思った。

 近しくなった心持ちで、個人的な会話をしながらの集金業務。
 でも最後は「ありがとうございました」「お疲れ様でした」会釈。

 これは仕事だ。勘違いしちゃいけない。
 勘違い、だ。
20121024


13

 褒められた。
 褒められる事が日常になっても、それはいつでも嬉しい。
 一つの嘘も隠していないような言葉なら、尚更。
 感謝の気持ちを込めて作ったものになら、尚更。

 集金後、ドアを閉めて鍵を閉めて、何の気無しにドアスコープで外を覗いた。
 集金を終えて用が済んだ筈の新聞屋さんが、ドアを見つめていた。
 今の俺の顔とは多分正反対の、切ない、と形容出来る様な顔で。
 それから溜息を一つ吐いて、ぎゅ、と目を瞑って、ぱ、と目を開いて、息を一つ吐いて、ドアから離れた。
 魚眼レンズを通した、歪んだ新聞屋さんは、そうして視界から消えた。

 心臓が跳ねた。
 何だ今の。
 まるで、まるで、恋に苦悩するみたいな。
 まるで、まるで、新聞屋さんが俺に恋してるみたいな。

 馬鹿馬鹿しい。そんな訳有るか。男同士だ。馬鹿馬鹿しい。

 ちょっと褒められたくらいで、馬鹿か、俺は。
 ——馬鹿だ、俺は。
20121025


14

 今月も、月末が来た。

「ろろろあ、や、ロロ、ノ、アさん…」
 苦笑された。
「ゾロ」
「え?」
「下の名前。ゾロ、です。『ゾロ』でいい、すよ」
 新聞屋さんがお釣りを手渡しながら、言った。
 俺はお釣りを受け取りながら、言う。
「…じゃあ、ゾロ」
「はい」
「敬語、止めねぇ?」

「堅苦しいのもアレだし。そりゃ、新聞屋さんと客だから、馴れ合う事もねぇのかも知んないけどさ、ほら、折角だし、その、歳も近そうだし、他に誰が見てるでもねぇし、普通に喋ったって罰当たんないだろ?」
 早口で捲し立てる。何言ってんだ俺。
「ちょっと仲良くしたいと思ってさ」なんて言わなかったのは、なけなしの良心、ってやつだ。いや、良心なんかじゃなくて…単なる臆病。
 馴れ合う必要以上に、仲良くする理由なんて無い。歳が近いから何だってんだ、アホか。
 客だから、あからさまに拒絶される事は無いかも知れない。自分の事として考えたって、そうだ。お客様から「仲良くしたい」とか言われたら、それがどんな奴だったとしても「ふざけんな馬鹿」と言って拒絶したりなど出来ない。曖昧な笑顔で首肯く自分が想像出来る。(それがもし美しいレディだったりしたら喜び勇んで連絡先の交換でもするかも知れないがそれはまた別の話だ。)

 けれど俺は、この新聞屋さんと「仲良くしたい」と思った。
 月に一度か、多くて二度、精々五分程度顔を合わせるだけの存在だ。
 けれどそれを楽しみにしている自分に、気付いてしまった。

 そのまま取って置いてある、75円のお釣り。新聞屋さんが作ったのかも知れない、それ。
 その下に敷いてある、二枚のメモ。新聞屋さんが書いた、字。新聞屋さんが介抱してくれた、証拠。
 それをそのままにしてある、理由。

 全部「仲良くしたい」に通じるじゃないか。
 ごまかすのは、もう止めだ。

「な?」
 邪心など欠片も無く見える様に、笑顔を作った。上手く笑えたろうか。
 新聞屋さんは、面食らった顔をしてから、僅かに頬を弛ませて、小さく首肯いた。
「俺は、サンジ、だ」
「知ってる」
 二人で声を出して笑った。

「仲良くしたい」の意味を考えるのは、一先ず棚上げだ。
20121102


15

「ろろろあ、や、ロロ、ノ、アさん…」
 何だその舌っ足らず。
 確かに俺の苗字は、言い辛い。
 軽く苦笑して、下の名前を告げる。下の名前で呼ぶ許可を与える。与える? 偉そうに。本当は「呼んで欲しい」と思ったくせに。家主が俺の名前を呼ぼうとした、それだけで高揚したくせに。
 綺麗に「ゾロ」と俺の名を呼んだ家主は、敬語じゃなくて良い、と言った。

 それじゃあまるで、親しくしたいみたいだ。
 頬が、弛んだのを自覚した。変に思われなかっただろうか。
 滞りなく集金業務を終え、次に会うのは恐らく一ヶ月後。

「じゃあ、また来月、な。サンジ、さん」
 暇を告げると、家主は目を細め、笑ったのか怒ったのか判別がつかない表情で言った。
「サンジ。」
 俺にも呼び捨てを許可するのか。
「…サンジ」
「じゃあな、ゾロ」

 甚く満足げな家主は、ドアを閉める際に手を振るというサービス付きで俺を送り出した。
 俺は流石に手は振れなくて、片手を軽く上げる事で応えた。

 これをどう考えたら良いのか。
 放っておけば浮き立ってしまう気持ちを、どうすれば良いのか。
「ゾロ」
 家主の声で呼ばれた名前。
「サンジ」
 呼ぶ事を許可された名前。
 浮き立つに任せておいて、良いのだろうか。
20121103


16

 名前を呼び合ってから一ヶ月。
 302号室のドアポストに新聞を入れる度、頬が弛むのを自覚している。
 今月も、月末が来る。集金業務で、サンジに、会う。上手く呼べるだろうか。サンジ、と。

 チャイムを押す。
「こんばんは、青海新聞です、集金に伺いました」
 業務は業務だ。いつもの通りに。

 ドアを開けたのは、サンジ、では無かった。
 厳つい爺さん。
 誰だ。
「お幾らですか」
 若干嗄れた、迫力のある声が言う。
「…三千、925円になります」
「じゃあ、これで」
 見覚えのあるサンジの財布から、五千円札を抜き出して手渡される。
「千円と、75円、です」
 お釣りと領収書、サービス誌と新聞袋とゴミ袋。いつものセットを手渡す。
「ご苦労様」
「ありがとうございました」
 頭を下げている間に閉められたドア。
 誰だ。
 サンジの、父親か、親類か、それとも?

 冷や水を浴びせられた様な気がした。浮かれるな、と忠告を受けた様な気がした。
 いつもサンジが居る訳じゃない。来れば必ず会える訳じゃない。思い知らされる。
 名前を呼ぶ事を許されたくらいで。何も、特別じゃない、と。浮かれていた、と。
 思い知らされる。
 サンジはお客様で、俺はただの新聞屋だ、と。
20121121


17

 久し振りに家まで来たジジィにお使いに遣られた。戻ってみると、ダイニングテーブルに財布と千円札と75円の小袋、新聞の領収書、サービス誌と新聞袋とゴミ袋が置いてある。ああ、もう月末だった。ゾロが、集金に来たのか。そうか、もう来ちゃったか。
 ぽっかりと、胸に穴が空いたみたいな虚脱感。

「新聞屋さん、来たのか」
「来たな」
「金、どうした?」
「お前の財布から払っておいた」
「おお。…どんな奴だった? 集金の人」
「若い男だったな。それがどうした?」
「いや、別に」
 ちょっと声が硬くなったのを自覚した。
 一ヶ月振りだったのに。次は一ヶ月後なのに。

 会おうと思えば、会える。居場所は分かっている。新聞販売店に行けば居るのだ。
 ゾロに至っては、住所さえも知っている。しかも毎日来ている。けれど、会わない。
 会う必要が、無いのだ。会う必要は、月に一度だけ。
 会うのに、理由が要る。そりゃそうだ、新聞屋さんと、ただの客だ。
 ハードルが高い。
 …何のハードルだよ? 会わなきゃならない理由なんて、無いんだ。ただ、…会いたいだけ。
 そうだ。俺はゾロと、会いたい。認めてしまえ。
 月に一度の会う必要は、容易に潰れる、脆いものだ。今日みたいに、俺の居ない時に来るかも知れない。集金担当者が、変わるかも知れない。ゾロが仕事を辞めないと、どうして言える?
 そんなものに、委ねていて良いのか? 会いたいんだろ? 仲良くしたいと思ったんだろ?

 焦燥感が、俺を後押しする。
20121122


18

 配達用自転車の前籠を、車に引っ掛けられた。幸い殆どの商品に問題はなかった。ただ何部かは汚れてしまってそのまま配達する訳にいかなかった。補充に販売店に戻らなければならなかったし、事故の処理にも手間取って、普段より配達が遅れた。
 配達区域には、深夜と言っても良い時間帯の新聞を待ち望んでいる客は居ない様で、今まで遅配の謗りを受けた事は無い。今朝も何とかなりそうだ。有り難い事だ。

 その日最後の配達は302号室と決めている。家主が高熱で倒れたのを発見した日から続く習慣だ。
 ドアポストに新聞を入れようとしたその時、302号室のドアが開いた。

「おはよう」
 いつもより幾分ラフな格好の家主に挨拶された。
「お、はよう、…随分早いな?」
「いつもこんなもんだ。ただ、今朝は新聞が遅かった」
「あー、悪い、ちょっとトラブルがあって…待たせたか?」
「いや、大丈夫だ。こうして待ってたら、会えるのかな、って思ってよ」

 何て言えば良いんだ、こういう時は。
 俺に会いたくて、俺を待っててくれた?
 何て言えば良いか、分からない。

 俺は最後の新聞を家主に手渡した。
 受け取った家主の手と、触れる。
「手、冷たいんだな」
 触れた手は、そのままに。
「ああ、でも、菓子作るには都合が良いんだよ。手が熱いと、生地がだれちまうし」
「へえ」
 どういう事かは分からない。けれど家主が手を引かない事の方が、気になる。それがどういう事かも分からない。

「ゾロの手は、あったかいな。外で働いてるゾロの手の方が、家ん中に居る俺の手よりあったかいってのは、変な感じだ」
 冷たい手に、俺の体温が移っていく。
「今は、菓子、作んねぇんだろ?」
「あ? ああ。まあな?」
 手に触る事も許すのか。こんなちょっとの事で浮き立つ気持ちが、煩わしい。
「だったら…」
 空いていた方の手も、家主の手に沿わせる。
「こうしてあっためても、問題ねぇな?」
 新聞を持った家主の手。それを包む俺の手。拒まない、家主。理由が知りたくて、瞳を見る。視線がぶつかる。家主の、サンジの視線は、どんな意味だ?

 ぐう

 腹が鳴った。有り得ない。こんな時に鳴るなんて。

「腹減ってんの?」
「…ああ、いつもなら、飯食ってる時間だ」
「配達は、うちで最後?」
「ああ」
「俺、これから朝飯なんだけど。食べてく?」
「え」
「俺はパティシエだけど、普通の料理も美味いぜ?」
「…お前の分が、なくならないか?」
「ははっ、お前、どんだけ食べる気だよ? 大丈夫。二人分は優にある」
「ホントに、良いのか?」
「ん? 良いって言ってんだろ? 勿論、ゾロの都合が悪いんなら…」
「いや、いや、食う! あー、ちょっくら店に電話して来る」

 ひしゃげた自転車は店に戻してあるし、集金した訳でも、残した新聞がある訳でもない。俺が今すぐ店に帰る必要は無い筈だ。302号室のドアから少し離れて電話した。
「腹が減ったんで、飯食ってから帰ります」
 それだけ言って、切る。
 電話を取った所長の娘が何か言った気もするが、気にしない。
 このチャンスは、逃したくない。
 …チャンス? 何の? …ああ、そうか。あの美味い菓子を作る奴の作った飯を食うチャンスだ。そうだ。他に有り得ない。
20121123


19

 302号室のドアを開けて「お邪魔します」と声をかける。「おー、入れー」と家主の暢気な声が聞こえる。美味そうな匂いがする。喉が鳴った。

 テーブルの上にあったのは、完璧な朝食だった。
 ご飯。みそ汁。具はわかめと豆腐。焼鮭。だし巻き卵。ほうれん草のごま和え。白菜の漬物には鷹の爪の輪切りが乗っている。どれもこれも美味かった。更には食後に番茶。お茶にも美味い不味いがあるのだと知った。

 かなりの勢いで掻き込んだ気恥ずかしさをごまかしたくて、口を開いた。
「何となく、パン食だと思ってた」
「ああ、髪がこんなんだしな。外人さんだと思ったんだろ?」
 家主が金髪を一房掴んで言った。
「違うのか?」
「まあ、生まれは北欧だそうだけど、育ったのは日本だ」
「へぇ…」
 違和感を感じる言い回しだが、それについてよく考える前に家主が喋る。
「朝はしっかり食べたいからな。それに、職場が甘い匂いだろ? オーブンもフル稼働だから結構暑いし、汗もかく。だから朝は塩分多めだ」
 家主の声は、心地良い。つい聴いてしまう。

「他に、食べさせる奴が居たんじゃないか?」
 こないだの爺さんとか。そうじゃなくても、他に、誰か。
 おかしく聞こえない様に、細心の注意を払って発声した。
「居ねえよ? 何で?」
 家主の声は、何の含みもない様に感じられてほっとした。それでも。
「鮭。二枚焼いたんだろ?」
 そもそも自分一人で食べる食事をこんな立派に整える事さえ俺には考えられない。ましてやきっちり二人分の用意だ。
「ああ、一枚焼くのも二枚焼くのも手間は一緒だし。大体多めに作る。鮭はあれだな、余ったら解して鮭フレークにしとく。弁当にして持ってく事もあるし」
「やっぱりお前の分、俺が食っちまったんじゃねえか」
「良いんだよ。食わせたかったんだ」
 食わせたかった? 俺に? どうしてそんな事を言うんだ。そんな穏やかな顔で。

 時間にして三十分程。それでも、朝、出勤前の三十分は長居だろう。
「美味かった。ごちそうさま。長居して悪かったな」
「いや、ちっとも。もし、良かったら…」
 もし、良かったら?
「また、食いに来いよ」
 また。食いに。

 何て言えば良いんだ、こういう時は。
 とても有り難い申し出だから、「おう」と答えた。
 けれど…本当に食いに来ても良いのか?

 店に戻ると、所長の娘に詰め寄られた。
「こんな時間に何処で朝ごはん食べたのよ? ひょっとして、お客様に御馳走になったんじゃないでしょうね?」

 ——お客様の家に上がり込んではいけません。

「違う、お客様じゃねぇ。…トモダチ、だ」
 お客様ではあるけれど、ただの客ではない、筈だ。もう、友達と呼んでも良い筈だ。
 けれどどういう訳か、友達と言うのに躊躇した。友達、ではしっくりこない。でも、他に言い様が無いから、『トモダチ』と、カタカナで言った。
 こいつにそんな微妙なニュアンスが伝わるとも思わないけれど。伝える必要の無い事は、伝わらなくて構わない。
20121124


20

 次の日の配達は、緊張した。
 ひしゃげた自転車の代わりに勝手の違う別の自転車をあてがわれた所為もあるが、本当の所は、302号室の朝食について考えあぐねていたからだ。

 今日は昨日より一時間早い。あれだけの朝食を準備するのだからもう起きているかも知れないが、未だ寝ている可能性もある。普通人は寝ている時間だ。
 起きていたとしたって、昨日の今日だ。毎日来るなんて思ってないかも知れないし、そもそも、単なる社交辞令かも知れない。いやその可能性は非常に高い。客が新聞屋に飯を食わせる謂れなど無いじゃないか?

 最後の一部を手に、俺は302号室の前で逡巡した。ドアポストに入れるか、チャイムを押して手渡すか。

 チャイムを押して、出て来たサンジの顔に迷惑の表情を見てしまったら。
 そんなのは、耐えられない。
 ドアポストに新聞を入れようと、手を伸ばした。
20121125


21

 少し強引だったか。でも。来ないかも知れない一ヶ月後の機会を待つのは、耐えられそうになかった。
 ゾロに、飯を食わせた。
 がっついてくれた。美味いと言ってくれた。
 また食いに来い、と言った。
 おう、と答えてくれた。

 いつもなら配達の頃合い。二人分の朝食を用意し終えた俺は、居ても立っても居られず、玄関に居た。
 ゾロは、飯を食いに来るだろうか?

 気配がした。
 音を立てない様に、そっと、けれど急いでドアスコープを覗く。
 ゾロが、手に持った新聞をじっと見詰めていた。
 これは。
 迷っている?
 ゾロの手が新聞をドアポストに運びかけた。

 ——帰ってしまう。

 俺は急いでドアを開けた。
「おはよう。飯、出来てるぜ?」
 ゾロの吃驚した顔は、なかなか良かった。

 本当に迷惑だったなら浮かべるだろう表情は、一つも見えなかったから。
20121126


22

 結局毎朝、朝飯を御馳走になる為に、302号室のチャイムを押している。

 二度目のあの日。逡巡して、結果帰ろうとした日。突然開いたドアの向こうで、家主が——サンジが、笑顔を見せた、あの日。
 やっぱり美味かった朝飯を食べ終えて、そろそろ辞そうと思った時。
「遠慮しないでくれな?」
 サンジはそう言った。
「明日も、来てくれるか?」
 サンジはそう言った。
 施されているのは俺なのに、まるで施しを待つ様な、そんな目で。
 どうしてそんな目をするのか知りたくて、覗き込む様に見た。すぐに目は伏せられてしまい、知る事は叶わなかった。

「迷惑じゃないなら、」
「迷惑だったら、誘ったりしねえよ」
 間髪入れずに返された言葉と同時にこちらを見た目は、もう、あんな目じゃなかった。

 ほっとした。
 俺が、遠慮せずに美味い朝飯にありつく事で、サンジにあんな目をさせずに済むのなら。
 遠慮する理由なんか一つもない。そもそも、俺にとっては嬉しいだけの話なのだ。

「明日も、御馳走になる。今日と同じくらいの時間で大丈夫か?」
「ああ。待ってる」
 サンジはそう言って、笑った。

 帰路は心が浮き立って仕方なかった。
 いつか叩き落されるだろう、と心のどこかで意識しながら、それでも浮き立つ心はどうにもならなかった。

 毎朝、浮き立つ気持ちで302号室のチャイムを押している。
20121213


23

 サンジは良く喋る。
 物静かな男だろうと勝手に思っていたが、見当違いだった。
 しかしその声は耳障りではなく、どちらかと言えば耳に心地良い。外見の透明感に相反して、低く柔らかい。
 いつまでも聴いていたいと思う。そんな声だった。

 そんな声で、食事の間でも、料理の説明や店に来た客の事、今取り組んでいる新作菓子について、など、色々喋る。喋る合間にも食事はしっかり摂っていて、別段行儀悪くも感じない。不思議だ。
 俺は食べている間はどうしてもそちらに集中してしまって、掻き込む様になってしまう。いつも直ぐに食べ終わってしまって、気恥ずかしい思いをする。それをごまかしたくて、食後の茶は殊更ゆっくりと飲む。俺が喋るのは主にその時だ。

「何で、パ、ティ…パティ、シ…」
「パティシエ?」
「それ。何で、パティシエ、になろうと思った?」
「ジジィが、…一回会った事あるだろ? 集金の時。変な髭のごついジジィ」
「ああ、お爺さんなのか」
「…養父なんだけど、パティスリーやってて」
「パティスリー…」
「ああ、洋菓子屋。跡継ぎって訳じゃねえけど、俺、料理以外出来ねぇし」
「何で、コックじゃなくて、菓子?」
 こんなに美味い飯を作れるのに。
 そんなつもりで言ったら、サンジは笑った。
「女の子は、お菓子見たら良い笑顔するじゃん?」

 俺の笑顔はどうだ

 言いそうになった。何だそれは。言える訳が無い。
 曖昧に笑顔を返して、茶をぐいと飲んだ。

 サンジは、女の笑顔が見たいから、美味い菓子を作る。
 ゆっくりと茶を飲むのは帰り難いからだ、と、認めるのは、怖かった。
20121214


24

 そしてサンジは、聞き上手でもあった。
 自分は無口だと思っていたが、どうもサンジに促されると、するする喋ってしまう。

「新聞屋さんって、ちゃんと寝る時間あんの?」
「朝刊終わったら、大抵寝る」
「うん」
「で、昼に起きて、次の日のチラシ組んで、夕刊配って」
「月末は集金すんだろ?」
「うん、それ以外は、他に仕事がなけりゃそれで終わり」
「その後は何してんの? 流石にまだ寝ないだろ?」
「俺は、道場」
「どうじょう?」
「ああ。販売所の所長が、剣道場やってんだ。夕方からは子供達が来るから、そっち手伝ってる」
「剣道…、教えてんの?」
「一応、師範代だ。ちっこい頃からずっと剣道ばっかりやってて、それくらいしか出来ねえから」
「へえ。強えの?」
「んー、まあまあ、っつーか、まだまだ、だな」
 自慢したい気持ちと、恥ずかしい気持ちがない交ぜになる。早口で付け足した。
「そんで、風呂入って酒飲んで、八時には寝ちまう。で、夜中起きて朝刊配達して。そのくり返し」
 最近は朝飯が楽しみだ、なんて、流石に言えない。

「彼女とデートする暇ねえな?」
「…居ねえよ、そんなの」
「お前、モテそうなのに」
「そんな事、…ねえよ。お前こそ…」
 妙な雰囲気になりかけて、少し強張った。
「そーだよな? モテそうだろ、俺。何で駄目なんだろうなー?」
 殊更ふざけた声色で、救われた気がした。

 その手の話題は、避けたい。まだ。
 ——もう、と言うべきかも知れない。
20121215


25

 あれからゾロは、毎朝俺に新聞を手渡して、俺の作った朝飯を食っていく。
 綺麗な箸使いで、美味そうに頬張る。誰も取りやしないのに、勢いよく掻き込む。そして、食器を綺麗に空にして、ごちそうさま、と言う時、ちょっと『しまった』という顔をする。
 そうして、食後のお茶はゆっくり飲むのだ。わざと少し熱めに淹れたお茶を。

 ゾロが茶封筒を差し出した。
「何?」
「あー、食費?」
「何で?」
「いやだって、毎朝飯食わしてもらってるし。材料費ぐらいは。足りるか分かんねぇけど」
「いや、貰う訳にいかねぇよ。趣味の一環だし」
「でも、ただ食わせてもらう訳にもいかねぇよ、こんな美味い飯。俺の気が済まない」
 そんな嬉しい事言うなよ、それだけで充分だ。金なんて貰いたくねぇんだよ。商売じゃないんだ。食ってもらってんだ、こっちは。
「良いんだよ。俺、楽しいし」
「だったら、」
 ゾロはそこで一旦言葉を区切って、ちょっと覚悟を決めたみたいな顔をした。
「俺だって楽しいんだから材料費ぐらい受け取れ」
 え。
 どうしてそんな嬉しい事を言ってくれるんだ。美味いのは当然としたって、楽しいだなんて。やべえよ、泣きそうだ。

「じゃあさ…、うちの店に、菓子買いに来てくれよ、その金で。いつか。手間かけさせて悪ぃけど」
 ゾロは茶封筒をじっと見た。
「それじゃあ、店の利益じゃないか」
「店の利益は俺の利益だ。俺の飯は美味いと思うけど、菓子はもっと美味いんだ。だから、食って欲しい」
 恥ずかしいことを言ってしまった。
 沈黙が居たたまれない。
 堪え兼ねて何か言おうとした時、ゾロが口を開いた。
「分かった。必ず行く」
「おう。いつでも良いからな。駅向こうの『パティスリーバラティエ』だ。青い看板だ、直ぐ分かる」

 あんまり引き止めて睡眠時間を削らせるのも悪いから、ちょっとでも長く居て欲しい邪な気持ちは、熱めのお茶一杯分だけにとどめる。
 いつか、ゾロが俺の菓子を買いに、店に来る。ちょっとした約束が、胸をくすぐって、こそばゆい。
20121216


26

「明日から、新聞、一週間、取り置いといて欲しいんだ」
「どっか行くのか」
「ああ。出張。支店のピンチヒッターだ。で、よぉ」
 サンジは、言い辛そうに切り出した。
「一週間、朝飯、作れねぇんだ」
「そりゃそうだ」
「悪ぃ、な」
「悪かねぇよ。食わせてもらってるのがありがてぇんだ」
 謂れも無いのに申し訳なさそうにしているサンジの心的負担を軽くしてやりたくて、出来るだけの笑顔で答えた。
「一週間も、お前の朝飯が食えねぇのは、つまんねぇが」
 サンジが、はっとした顔でこちらを見る。
「一週間後が、うんと楽しみだ」
 最大限の笑顔で。

 さて、一週間。贅沢に慣れてしまった以上、侘しい朝食を覚悟しなくてはならない。
 一度チャレンジしたが結局辿り着けなかった『パティスリーバラティエ』訪店も、次週に持ち越しだ。サンジが居ないのなら行った所で意味が無い。
 そんな事を考えながら販売所に戻り、俺はとても暢気だったのだと、知る。
20121217


27

「ありがとうございます、青海新聞です。はい、え、ロロノアですか? ええ、間もなく配達から戻る時間ですが、ええ、え? ああ——、ええ。はい——」
「ただ今戻りました」
「あっ、今、戻りました。——ゾロ、電話! 早く! お父様が!」

 取る物も取り敢えず、電車に乗った。
 結局、父親の死に目には会えなかった。

 突然だった父親の死は、母親の錯乱を招き、後処理の煩雑さもあって、俺は実家を離れられなかった。
 夜の浅いうちから眠くなり深夜に目が覚める、体は「新聞屋さん」のままに。
 周囲が静まり返った布団の中で目を覚まし、思うのは302号室の家主の事だ。
 突然、連絡もしないで飯を食いに行かなくなって、サンジは、どう思っただろう。

 一週間は不在だった筈だから、八日目。いつもの様に二人分の朝飯を作って、待っていてくれただろうか。残った一人分の朝飯を弁当に仕立てて、出勤しようとドアを開けて、朝刊を発見しただろうか。俺が黙って朝飯を食わずに帰ったと知って、またあんな目をしただろうか。
 朝刊の配達時間に待ち構えて、別の奴が配達しているのを知っただろうか。そいつに、事情を聞いてくれただろうか。そいつに、朝飯を食わせるのだろうか。俺の代わりに集金した別の奴の名前を呼び、名前を呼ばせるのだろうか。


 二週間も朝飯を食わせてもらっておいて、俺はサンジについて、部屋と、名前と、職業と勤め先の屋号しか知らない。
 実家を離れられない俺にとって、連絡する術は無かった。

 手紙を書く事を考えた。正確な住所でなくとも、何とかなるんじゃないか、と。
 ——一体何を書けば?
 ふらりと立ち寄って、朝飯を食わせてもらうだけの、間柄。ただの新聞屋と客と呼ぶには近しいが、かといって友達と呼ぶのも躊躇する様な、ならば他の何と呼べば良いのか分からない、曖昧な関係。
 考えても答えは出ない。そして日は経ち、時機を逸してしまった。

 所長に電話で現状を報告する際、言付けを頼む事も考えた。けれど、一体どう説明したら良いのか、分からなかった。
「客に朝飯を食わせてもらっていた。突然行けなくなった理由を説明してやって欲しい」?
 そんな事、頼める訳が無い。
 どうしてそんな事になっているのか、全く以て、上手く説明出来る気がしない。

 ——「お客様の家に上がり込んではいけません」
 ——「違う、お客様じゃねぇ。…トモダチ、だ」

 俺にははっきり、疚しい気持ちがあったのだから。
 もう、自分の気持ちをごまかす気も失せていた。


 何を幾ら考えても、俺がもう「新聞屋さん」に戻れないのは決定で、俺はもう、サンジの朝飯を食っていなくて、サンジはもう、俺に朝飯を食わせていなくて、サンジと俺の間にはもう、曖昧な関係すら、無い。
 いつか菓子を買いに行く、その約束だけが、果たされずに残ったままだ。

 いずれにせよ、どんな方法であろうと、もう、遅い。
 会えなくなってから、三ヶ月が過ぎていた。
20121219


28

 出張から戻って、明日は一週間振りにゾロに朝飯を食わせてやれると思って、ちょっと笑ってしまうくらい張り切った買い物をしてしまった。いくらなんでも朝からこれは無い、ってメニューと量になりそうで、苦笑しながらメニューを組み直した。
 浮かれている。これは流石に気付かれる。それはちょっと拙いだろうと、気を引き締める。
 殊更普通の朝飯を用意して、ゾロが一週間分の新聞を抱えてやって来るのを待った。
 待ったが、ゾロは来なかった。
 いくらなんでも遅いとドアを開けて様子を窺うと、ドアポストに朝刊が入っていた。脇には一週間分の、取り置いてもらった新聞の束。
 どうして。
 どうしてゾロは、何も言わずに置いて行ったんだ?
 今日から俺が居るって、知っているから、持って来たんだろう?
 楽しみだ、って言ったのに。
 どうして。

 次の日も、その次も、ゾロは来なかった。
 一週間、二人分の朝飯を用意して、晩飯に残った一人分を食べた。惨めな気持ちと一緒に呑み込んだ。
 朝刊の配達を、ドアスコープから覗いた。知らない奴だった。販売所の前を、通って覗いた。ゾロは居なかった。
 多分。ゾロは辞めたんだろう。俺が居なかった一週間の間に。辞める事が決まったのがいつかは知らないが、それを俺に知らせるつもりは無かったという事だ。
 二週間目は、朝飯の用意はしなかった。何の不都合も無かった。

 月末、集金に来たのは、勿論ゾロじゃなかった。
 次の月末も。
 ゾロと朝飯を食べたのは、もう、遠い過去みたいだ。
「前、ここに配達とか集金とかに来てた人、辞めたんですか?」
「…ええ。実家に帰ったみたいで…ひょっとして、何かご迷惑おかけしましたか?」
 ほら。
 ゾロにとって、俺は沢山居る客の一人に過ぎなかった。
 うっかり友達みたいなもんだと思っていた。辞めるなら辞めるで、一言くらいあっても良い程度には、親しくなれたと思っていた。
 一人で浮かれて、馬鹿みたいだ。
「いえ? 全然。そういえば人が変わったな、って思っただけで」
 迷惑をかけられた訳じゃ無い。
 俺が勝手に、親しくなった気になって、浮かれただけで、俺が勝手に、裏切られた気になって、惨めなだけで、——惨めなだけだ。
20121220


29

 母親は次第に落ち着きを取り戻し、けれど実家に戻って欲しいという願いは無下にも出来ず、始末をつけてから、完全に実家に戻る事になった。

 始末をつける。
 販売所にきちんと挨拶をして、きれいさっぱり引き払う事。
 それから。
 サンジとの約束。

 サンジと初めて会ってから一年になる。
 そのたいして多くない接触を、思い出す。この三ヶ月で、散々反芻した思い出を。

 最初の新聞に添えるメモに名前と部屋番号を書いて、語呂合わせか、と思ったら笑えた事。新しい配達先を覚えるのはいつも苦労したが、“302号室”の“サンジ”はすんなり覚えて忘れなかった事。
 初めて顔を合わせた時。若い男が出て来るとは思っていなかったので、少し吃驚した事。外見に反した落ち着いた対応も意外で、印象に残った事。
 なんだか嬉しそうに、925円をぴったり小銭で払う仕草。
 二千円札を出された時。初めて見る実物に、ちょっと嬉しくなってしまって、それを気付かれたかと思ったら恥ずかしかった事。集金を終えた後、悩んだ挙句、こっそり自分の財布から四千円を出して、その二千円札二枚と取り替えた事。
 お釣りを渡す時、触れた手。
 カード払いのお勧めをする気になれなかった事。
 ペンと伝票を差し出した時、触れた指。
 販売店の前の道を、家主が通りかかったのを見た時。目の端に金髪がきらりと映って、あ、と思った事。あ、と思ったら、家主がこちらを見た事。認識されているのかと思い、慌てて、軽く会釈した事。勘違いかも知れないから、軽く。単純に、歩く動きの中で頭が下がっただけかも知れないから。頭を上げてみると、家主はもう通り過ぎた後で、少し残念に思った事。
 同じくらいの上背だと気付いた時、意外だと思った事。
 名前と部屋番号を覚えている事を家主に知られた時、随分慌てた事。
 高熱を出した家主を抱きとめた時。熱かった体。綺麗に並べられたお釣り袋を見た時、堪らない気持ちになった事。自分が二千円札を取り替えた気持ちと、ちょっとでも似ているんだろうかと思った事。あの時は思考がおかしかった、と自分でも思う。鍵なんて預かっちゃ駄目だろう。様子を見に部屋に入るなんて駄目だろう。なんであんな事をしたのかと、自問自答した事。出て来る言い訳を突き詰めて、辿り着いた結論に頭を抱えた事、それから、泣きたくなった事。

 笑った顔。貰った菓子。
 仕事を知った。
 名前を呼び合った。

 浮き立ってしまった心。会えない事に冷やされた心。

 手を握った事、腹の音を聞かれた事、朝飯に呼ばれた事。

 顔を合わせて話し、朝飯を食わせてもらうのが、毎日楽しみだった事。
 渡そうとした食費は受け取ってもらえず、代わりに、約束を貰った事。その約束をまだ果たせていない事。

 これから、その約束を果たしに行く。
 それで、終わりだ。
 この気持ちに、始末をつけに行く。
20121221


30

 駅の改札を出た。販売所とは別の方へ歩く。三ヶ月前にチャレンジした時は目に入らなかった交番に入って、訊く。
「パティスリーバラティエという洋菓子店を探しています」
 お巡りさんは交番を出て、指を指しながら教えてくれた。
「この道をまっすぐ行くと、100m程先の左手に青い看板が出てますよ」
 まっすぐ。100m。左。
「ありがとうございました」

 言われた通りの場所に、その店はあった。店の前に立ち、左を見ると駅が見える。あの時辿り着けなかったのが不思議だ。
 ガラス戸から中を覗く。ショーケースの中にケーキ。棚には焼き菓子。奥には喫茶スペースもある様だ。ちょっと見ただけではサンジは居ない様だが、厨房にでも居るのだろうか。
 足が竦む。けれど、逃げる訳にはいかない。一度深呼吸をして、ガラス戸を開けた。

「いらっしゃいませ」
 ショーケースの奥に居る店員に尋ねる。
「サンジさん、居ますか」
 目を大きく開いた店員は、後ろを振り返った。一部ガラス張りになったその奥が厨房の様だ。目を凝らすと、白衣に身を包んだ人物が作業している。
 サンジだ。
 じっと見ていると、サンジが、こちらを見た。サンジの目が極限まで開いていく。
『ゾロ』
 口の形が、そう動いた様に見えた。忘れられていなかった。ほんの少しの安堵。
 困惑した顔のサンジが、厨房の扉を開け、一直線に俺の前まで来た。
「ゾロ…お前、どうして…」
 声が震えている。
「買いに来た。菓子。これで、見繕ってくれ」
 いつかの茶封筒を差し出す。
 それをじっと見たサンジは、ゆっくりと受け取り、言った。
「辞めたって聞いた。実家に帰った、って」
「ああ。…少し、話がしたい。時間、良いか?」

「後始末して来るから、ケーキでも食べて待ってて」
 サンジは店員に何か指示して、厨房に戻った。
 店員に案内された喫茶スペースで、チョコレートケーキと紅茶を出された。やはり掻き込む様に食べてしまう。熱い紅茶をゆっくり飲む。丁度全部空になった所で、サンジが来た。
「お待たせ」
 サンジは白衣ではなく、普段の格好だった。
「仕事、良いのか?」
「今日はもうやる事ねえし、早退」
 空の皿とカップをカウンターまで運び、店員に「後はよろしく」と声を掛けたサンジに促されて外に出る。
「どうする? 外じゃ暑いし、俺ん家で良いか?」
 首肯くと、サンジは歩き出した。後を追う。

 何から話そう。話したい事はたくさんある。話さなくてはならない事も。それから、話さない方が良いだろう事。けれど、話さなくては終われない事。

「こないだの集金の時さ、ゾロじゃなかったから、二ヶ月連続で。訊いたんだ。辞めたのか、って。実家に帰ったって言われたけど?」
「父親が危篤だって電話があって、急いで帰って。そしたらもう死んでて」
 サンジは、悼む表情でこちらを見た。何か言おうとして言葉が出ないのを制して言葉を継ぐ。
「黙って朝飯食いに行かなくなって、悪かった」
「…いや、良いよ、そんなの。事情が事情だし」
「…待たなかったか?」
「…ちょっと待ったけど。そうだよな、お前、楽しみだって言ってくれてたし、事情があったに決まってるよな。なんで俺、そこまで頭が回らなかったんだろ。馬鹿だな、変に勘ぐって…」
 ぶつぶつ言うサンジは、眉間に皺を寄せている。来ない俺に腹を立てたか傷付いたかして、今、そんな自分に腹を立てているのだろう。無駄にマイナス感情を持たせてしまった。
「嫌な思いさせて、悪かった。連絡する術が、無かった訳じゃ無いのに。気後れ、しちまって」
 そうだ、連絡する術は、有った。どうにでもなった。無かったのは、勇気、だ。
 サンジは、忸怩たる思いで歪んでいるだろう俺の顔を見て、意外そうな顔をした。
「いいんだ。大変だったんだろ? 俺が勝手に、考えが足りなくて、勘違いして、拗ねてただけだから」
 サンジは、いつも俺の心を浮上させてくれる。

 三ヶ月前まで毎日通ったマンションに着く。
「家着く前に、話終わっちゃったな?」
「いや、もっと話したい事があるんだ。良いか?」
「勿論」

 三ヶ月振りのサンジの部屋は、三ヶ月前と何も変わっていなかった。すっかり自覚してしまった今となっては、よくも部屋に二人きりで居れたものだと思う。

「パティシエに渡す土産じゃねえけど」
 少し回復した母に「散々ご迷惑おかけしたから、皆様に差し上げて」と山と持たされた手土産を一包み手渡した。
「吉備団子だ」
「岡山か」
「俺にとってはお袋の味だ。張り切って作ってた」
 冷たい麦茶を出してくれながら、サンジは目を輝かせた。
「お母様の手作り! 早速頂いて良い?」
 包みを開けたサンジは、だったら、と言いながら熱い茶を淹れ、団子を頬張った。素人の作る菓子がプロの舌にそんなに美味く感じる訳はないのに、サンジは「美味い。あったかい味がする」と言って良い笑顔を見せた。

 まず、話さなくてはならない事。
「もう、完全に実家に帰る事になった」
「うん」
「だから、もう、会う事も無いと思う」
「そうか…」
 サンジの顔が、残念そうに見えた。思い上がった誤解だとしても、もう会う事は無いのだから構わない。最後の思い出だ、自分に都合の良い様に解釈すれば良い。

 俺は、喋った。三ヶ月の間、何を思ったか。サンジと喋れないのが、どれだけ苦痛だったのか、改めて知る。
 突然会えなくなる事が、世の中には有る。いつ死ぬかも分からない。ならば伝えられる時に伝えておかなくてはならない、と。
 サンジと会えなかった三ヶ月で、思い知った。

 一年分くらい喋った。
 いくらでも喋りたかった。
 サンジは柔らかく相づちを打ってくれた。その声さえも、得難いものだと知った今は、聞き逃したくなかった。


 最後に、話さない方が良いだろう事。けれど、話さないと終われない。

「俺は、お前の事、好きだった、と思う」
「ごめんな。気持ち悪いよな。親切で、飯まで食わせてやったのに、そんな邪な目で見られてたとか、嫌だよな。本当に、ごめん」
「もう、会う事も無いし、言ったってしょうがないんだけど、でも、どうしても言わないままで居るのは辛くて、俺の自己満足に巻き込んで申し訳ない」
「こんな事、俺が言えた義理じゃないけど、簡単に人を家に上げたりすんなよ? お前、隙だらけで、心配だ」
「じゃあ、ごめんな。ありがとう。お前と会えて、俺、俺は嬉しかった。ありがとう。じゃあ」
 呆気にとられた顔のサンジに、精一杯の笑顔を向けて、席を立った。

 サンジが、俺の手首を掴んで引っ張った。何だ、殴られるか、それも仕方ないか、と思って、サンジを見た。
 初めて見る様な、強い意志を持った目で射抜かれた。

「同じ気持ちだって知って、諦められるかよ」

 サンジは、何を言っているんだろう。
20121222


31

 何度謝る気だろう。
 信じられない様なゾロの言葉に呆然となりながら、そう思った。

 どうやらゾロは、とても鈍い。

 三ヶ月前。ゾロが朝飯を食いに来なくなって、俺は、とても惨めな気持ちになった。惨めな気持ちに一段落つくと、逃げられたんだ、と思い至った。想いに、気付かれたんだ、と。
 そりゃ、逃げる。
 男が邪な気持ちを持って胃袋を掴んで来ようとしてるんだと、男が知ったら、逃げる。当然だ。
 仕事を辞める程怖かったかと、嘲笑が湧き、その後、涙が浮かんだ。

 益々惨めだった。
 たった二週間だったけれど、楽しかった。ゾロも楽しいと言ってくれて、嬉しかった。それが全部台無しだ、と。

 ゾロは、俺の想いなんて、ちっとも気付いちゃいなかった。
 それどころか。

 ゾロが、俺を、好きだった?

 なんだよ、俺も、相当鈍い。
 なんだよ、三ヶ月も、苦しかった。馬鹿みたいだ。


「ゾロ」
 ゾロは、俺に手首を掴まれたまま、俺を呆然と見ている。
「俺が、ただの親切で、飯を食わせてたと思うか?」
「楽しい、って言っただろ?」
「お前だから、食わせたかったし、食って欲しかった」
「分かるか?」
「お前は、謝る事なんか、無い。俺は、——嬉しいんだ」

 一言一言、噛み締める様に言う。
 一言毎に、ゾロの顔が歪む。

「お前も、俺、を?」
「ああ。——好きだ」

 きっと俺の顔も歪んでいる。
 二人して苦しかったなんて、馬鹿みたいだな?
20121224


32

 どうやら俺たちは同じ気持ちだったらしい。
 胸が急速に喜びで満たされた。けれど、それでも遠く離れる事には違いない。
 これからどうしたら良いのか、サンジはどう考えているのか、窺う様にサンジを見る。

「岡山と東京は、遠いけどさ」
 サンジが、店で渡した茶封筒に重ねて名刺の様な物を差し出した。
 青地に白抜きで『パティスリーバラティエ』、その下に、住所が二つ。

 本店:東京都——区—— ——
 支店:岡山県岡山市—— ——

「俺が助っ人に行ってた支店、そこ。そんでさ、今度、俺、支店長になんの」
 サンジがにっかり笑う。
「岡山も広いだろうけどさ、東京とよりは——」
「近所だ」
「え」
「俺ん家、市内」
「え」
 サンジが目を丸くする。
 その様子がおかしくて、思わず笑みが零れた。


「もう、新聞屋さんと客じゃない」
 そう言って、サンジが、笑った。
 その顔は、いつか見た様にやっぱり花の様で。
「菓子屋と客か?」
 俺は精一杯笑ったつもりだったけれど、多分失敗していた。泣きそうだ。
「俺は、お前から金取る気はねえよ。だから、客じゃねえ。お前と俺は——、ただの——男、と、男、で——」
 言い淀んだサンジの後を引き取り俺は言った。
「お友達、ってのは、今更だよな?」
「そりゃ今更だ! ——もうちょっと、その、近しい感じで…」
 サンジはちょっと頬を赤くして、目を逸らした。俺はいよいよ泣きそうで、そんな顔は見られたくなかったから、そっとサンジの頭を引き寄せて、俺の肩に乗せた。
 これでサンジの視界は塞げたけれど、俺がサンジの顔を見る事も出来ない。それは如何にも惜しい様な気がしたけれど、サンジの腕がそっと俺の腰に回ったから、サンジの顔を見るのはまたの機会で良いかと思った。

 もう、会うのに、会いたい以外の理由は要らないのだから。

(完)
20121225


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