生まれた時から、旅をしていた。一所に留まった記憶がない。風の向くまま、気の向くまま、自由な旅人暮らし。 それを自分で気に入っていた。漠然と、自分は一生このままだと思っていた。 たまたま迷い込んだこの谷で、異形の少年に懐かれた。 「おじさんは、どこから来たの?」 …おじさん。苦笑が漏れる。 その様子を見た少年が、すまなさそうに言う。 「あ、ごめんね、おじさんじゃないよね、お兄さんだ」 「いや、良いよ、おじさんで」 この年頃の子供にとって、お兄さんもおじさんも、然程変わりはないだろう。 「やっぱり、お兄さんだ」 どういう事かと訝しがると、こっそり耳打ちされた。 「本物のおじさんはね、おじさん、って言われると、怒るの」 それから、うふふ、と楽し気に笑った。 請われるままに、どこから来たのか話して聞かせた。 地名。どれだけ遠いのか。何が有って、何が無くて、何が美しくて、何が心を惹くか。 それを幾つも。 「お兄さん、世界中を旅しているの!?」 きらきらと瞳を輝かせて。 「僕は、ここから出た事がないよ」 少し、もじもじして。 儚く見えて、手を伸ばした。 遠目にはつるりとしている様に見えるが、近くで見ると短い毛のみっしり生えた丸い鼻先を、ぎゅうと掴む。程よい弾力で、触り心地が良い。 「ひゃぁ」 目を瞑り、口が笑う。 そのままもふもふと揉む。 「うひゃひゃ、やめてよー」 ちっとも止めて欲しそうじゃない。 撫でると毛並みが乱れ、逆毛が光の反射を変える。 指でつぅと逆撫でると、顔に線が走った。 無垢なもの程汚したい、よな? 手の動きの意味が変わった事を、機敏に察知したらしい。 「お兄さん?」 問い掛けと共に、笑顔が、ふ、と消えた。 年端も行かぬ少年だと思っていたのに。 動かした指の意図を正確に認識したかの様に。 無垢だと思った瞳が、ぎらり、と。 仕掛けたつもりが、搦め捕られた。 滑稽とも言える姿形に、油断した。 妖精を、甘く見るものではない。 旅暮らしで生きて来て、それを気に入っていたのに。 当分、この谷を根城にせざるを得まい。 離れられない。 この少女は、あの少年のガールフレンドらしい。 あの、無垢に妖艶を隠した少年の。 似た容姿だが、種族は違うらしい。 僅かに生えた金髪が自慢の様で、体の色をころころ変える。 触り心地は、一緒。 前髪を指先で揺すってやると、目を細めて笑んだ。 返す刀で、耳介を。笑みが深まる。 鼻先の毛並みを乱すと、ボーイフレンドと同じ反応を見せた。 仕上げに、足首に嵌まった金の環を、くるり、と回す。 ころころ変わった体の色が、平常の色に戻って落ち着いた。 終わり、らしい。 随分あっさりとしたものだ。 この神経質そうな男は、あの少女の兄だそうだ。 成る程、頭髪が有る。 妹より豊かなそれは、くるくる巻いており、巻いた中心に指を差し入れてみれば、滑らかだった。 「な、何を!」 抗議の声を上げたって、無駄だ。頬が赤い。しっぽがひくりと動いた。押さえようとして押さえられるものではない。 体は理性を裏切るな? 正直者め。 五指全てを巻いた髪の中心に差し入れ、軽く指を窄めて扱く。伸びた髪は指を外れると、くるりと戻る。それを何度かくり返す。 男は、ぎゅ、と目を瞑って、体の色を僅かに変えながら、何かをじっと堪えている。 「我慢しなくて良いのに」 そう言ってやれば、瞠目して息を呑む。そしてから、奥歯を噛み締めて、ふるふると首を緩慢に振るのだ。 妹などより余程良い反応だ。 その様子を、群生した白く細長い生き物が、その肢体をにょろにょろとうねらせながら、遠巻きに見ていた。 ここからだと大地の裏側に当たる、独特な生物の進化を遂げた大陸に存在する動物に、良く似た少年。体は大きく、ずる賢さも持っているのに、どこかおどおどとした印象を与える。 彼は、きらきらしたものが好きらしい。 俺のザックの中に有ったきらきらした石を見た時、その目こそ、きらきらと光った。 「あげようか」 「ほんとうに?」 豊かな下肢に手を伸ばす。張った筋肉は、少年期に特有のしなやかさを失っていない。 「な、何?」 「欲しいんだろ? あげるよ」 その石を、見てな。 大きな耳に吹き込む様に言って、下肢を撫で上げた。 長い首がぶるりと震える。 耳が、ぱたぱたと鳴った。 *** この谷に住む妖精は、多様だが、一様に愛らしい。 俺と同じ種族だろう。 色が白くて、おっとりしていて、心根が優しくて、なかなか美人だ。 それが、俺を、見る。 同じ種族の男が、そんなに珍しいか? そうだな、そろそろ繁殖を試みる年頃だ。 その女には、妹が居る。 喧しくて、皮肉屋で、ちっとも美人じゃない。 鼻の頭に皺が寄っており、顔だけを見れば、姉より余程年嵩に見える。 この姉妹には、髪型以外、似た所が全くない。 番うのならば、姉の方だろう。 理性はそう言う。 なのに、夢想するのは。 小さい体を縫い止め、暴れる体を押さえつけ、抵抗する気力を奪う手順とか。 眉間の皺を深くしながら口汚く罵る顔とか。 それが浅ましい愉悦を覗かせる瞬間とか。 夢想する度、昂る。 どうかしている。 *** とんだ道化だ。きょうだいだと? しかも、俺が弟だ? 長姉の、親族に向けた親愛の視線を欲情だと勘違いした。次姉を心裡で犯した。 いたたまれない。 誰にも知られていないとしても、それを知っている自分の存在を無視は出来ない。 もうここには居られない。 また旅に。出るより他は、無い。 *** 爾来、この谷でこの旅人を見た者は居ないという。 |