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溜息

 はあ…
 野梨子は一人、生徒会室の椅子に座って、本日何度目かの溜息を吐いていた。

「溜息から幸せが逃げていく」
 突然、魅録の声が聞こえた。
「って、聞いた事、ないか?」

 野梨子はゆっくり声の主の方へ顔を向けた。
「ありますわ」
 そう言って、また大きな溜息を吐いた。

「どうしたんだよ。珍しいな」
 いつも凛としている野梨子が溜息を吐く。
 これは魅録にとって、意外な事だった。

「そうですかしら」
 野梨子の目は虚ろだ。
「何かあったか?」
 魅録は心配になって、野梨子の椅子に近づいた。

「何もありませんわ」
 そう言って、また、溜息。

 はあ…

 と、突然、魅録の大きな手が、野梨子の小さな口を覆った。

 驚いて大きな目を見開いて魅録を見上げた野梨子に、魅録は悪戯な目を向けた。
「幸せが逃げないように」

 それを聞いた野梨子は、可笑しくて笑った。
「ありがとう、魅録」
 目を伏せてそう言ったのだが、口が魅録の手に覆われているので、魅録には伝わらなかった。
 ただ魅録の掌に、野梨子が口づけた様になっただけ。

 その柔らかな刺激に、魅録はあらぬ事を考えてしまい、赤面した。
 自分の悪戯の報いなのに。

 動かなくなった魅録を不審に思った野梨子は、顔を上げて、赤く染まった魅録の顔を見てしまった。
 その目は、熱を持って自分を見ていた。

 急に、野梨子と魅録の顔が至近距離に接近した。
 魅録が片手を野梨子の口に当てたまま、反対の手を椅子の背もたれに置き、しゃがんだからだ。

 野梨子は再び驚いた。

 魅録は、野梨子が初めて聞く、甘く掠れた声で言った。
「この手、口に変えたい」

 野梨子は三度驚いた。

 野梨子の答えを待たずに、魅録はそれを実行した。

 背もたれに置いた手は、いつの間にか野梨子の頭を支えている。
 口に当てていた手は、いつの間にか野梨子の肩を抱いている。
 口づけは、徐々に深くなった。

 野梨子は驚き過ぎて、何の反応も出来なかった。
 怒る事も、拒否する事も。

 でも、分かっていた。
 もう、溜息は出ない。
 幸せは、逃げない。




あとがき

 2007年10月09日に書いたものに、加筆訂正。

 魅録が、こんな事するかね? こんな事言うかね? 美童じゃあるまいし。
 と、書いた当初も思ったけど、今も思う。
 美童なら、やりそうだな。常習的に。赤面はしないだろうけど。




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