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春一番

 強く、冷たい風が、砂埃を巻き上げて野梨子の髪を乱した。
 野梨子は咄嗟に目を瞑り、髪とスカートの裾を押さえる。
 間断無い強風は、野梨子の行く手を暫し阻んだ。

「大丈夫か?」
 幾分か紳士である魅録も、こう一貫性無く吹く風の前には、隣の淑女を庇う術が無い。
「ええ」
 そう答える野梨子は、今にも吹き飛ばされてしまいそうで、魅録は唯一と思われる『庇う術』を実行するに至った。

 即ち、片腕で野梨子の肩を包み、その手の平で野梨子の頭部を自らの胸部に押し付ける。

 両腕でそうしなかったのは、せめてもの―――強風の為止むを得ず、という演出―――不本意であり、決して疚しい気持ちでは無いと、野梨子に知らしめる為。否、野梨子にだけではない。何よりもそれは、魅録自身にとって必要な―――。
 野梨子の体は、片腕で充分なサイズである事も事実だが、両腕で抱き締めてしまっては、零れてしまう。
 秘さねばならない、と感じる、某かの想いが。
 空いた片腕は、無自覚のうちに選択された、エクスキューズ。

『強風に阻まれて』、二人は立ち尽くした。

 手の平では体温を感じていた魅録の手の甲が風の弱まりを感じた時、魅録は名残惜しさを感じた自分に戸惑い、手の力を弱めた。
 野梨子は、どう思っただろうか、この行為を。

 単なる紳士的な行為だと? 友情の発露として? それとも、それ以上の何かを?

 魅録は気になって、見下ろした野梨子が顔を上げるのを待った。
 腕の力を弱めるのは、風が暫く無いと判断出来てからだ。名残惜しさからそうしているのではない。
 魅録は、問われても居ない問いに答えを用意して、待った。

 魅録が野梨子のアクションを待つ間に、風は止んだ。
 風さえ止んでしまえば、魅録が野梨子を庇う理由は消滅する。
 魅録の腕が力を弱めると、野梨子は遠慮がちに体を離した。
「ありがとう」
 体の動きと呼応する様に、野梨子は遠慮がちに言った。
「いや、…なんか、ごめん」
 魅録は感謝の言葉を与えられたというのに、詫びの言葉を発した。
「え?」
 一瞬困惑を見せた野梨子は、魅録の戸惑いを、おそらく、本人よりもはっきりと理解した。

「どうして謝るんですの?」
「いや、別に…」
「何も、悪い事はしてませんのに」
「まあ、そうだけど…」

 魅録の戸惑いが魅録の自覚を呼び起こす前に、風がまた吹き荒れた。
 野梨子は咄嗟に、魅録の胸に飛び込み、魅録は両腕で野梨子を抱きとめた。

 春一番。
 吹く度、春の色は濃さを増す。




あとがき

 本当の「春一番」ではないですね、この風。単なる強風だ(だって『吹く度』って。一回だけだろ、春一番は)。

 例年2月から3月の半ば、立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強い風。(Wikipedia)

 今日は風が強かったので、以前書いたこの話を思い出したのでした。

 この二人は、きっと『落ち葉』の二人なんじゃないかと思う。

2008.2.27、2012.3.31




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