ホワイトデー |
俺は浮かれていた。 バレンタインデーに、恋人が出来た。 すとんと落ちて来た恋心は、思い返せば積年の重いだった気さえする。 放課後、家まで送る道すがら繋ぐ小さい手は、俺の掌の中でやわやわと温まっていく。 体温が馴染む毎に、胸の中も温まっていく。 幸せだ。 しかしながら。 俺は悩んでいた。 チョコレートの代わりに受けた頬へのキス。 うっかり「ホワイトデーをお楽しみに」なんて言ってしまった。 お返しには、何を? いや、悩んでるのはそこではない。 そんなもん、決まってる。 唇へのキス、だ。 ホワイトデーはバレンタインデーの一ヶ月後であるからして、バレンタインデーの贈り物へのお返しは一ヶ月後である。 あんな事を言ってしまったが為に、一ヶ月も手を出せない。 不覚。 自縄自縛。 迎撃でしちまえば良かった。 後悔先に立たず。 しかしながら。 俺の手の先で、満足そうに微笑む恋人を見ると、それで良かったのかとも思う。 ゆっくりで。 やっと落ちてきた恋心だ。 大切にしていきたい。 しかしながら。 俺は煩悶していた。 したい。 折角想いの通じた可愛い恋人と、あんな事やこんな事を、したい。 したい。したい。 しかしながら。 しかしながら。 そして、今日、ホワイトデーに至る。 *** 野梨子と付き合うとなったら、一番の関門は清四郎だと思っていた。 二月十四日の夜から十五日の朝にかけて、幸せな俺を悩ませていたのは専ら清四郎の事だった。 清四郎に何と伝えようか。清四郎を納得させられるだろうか。ひょっとすると清四郎は野梨子を好きかも知れない。清四郎に恨まれるだろうか。 これではまるで俺が清四郎に恋をしているみたいだ、と我に返り、清四郎がどうであろうがこれは野梨子と俺の二人の問題だ、と腹を括り、アクションを起こすのは取り敢えず野梨子に相談してからにしよう、と日和った。 だって、こんな幸せな夜に野郎を思って悩むなんて、勿体ないじゃないか! だから、俺をからかおうとしたアホな悠理のおかげで、悠理と清四郎の件を知ったのは僥倖だったのだ。 俺は安心して、清四郎に宣言する事が出来た。 「野梨子は、俺が送ってくから」 清四郎は俺をじっと見て言った。 「今日、家の近くに何か用事があるんですか?」 「違う。今日だけじゃない。これから、帰りは、俺が、野梨子を送ってく。ずっと、だ」 清四郎は僅かに瞠目した。それから、にっこり笑って「頼みます」と言った。 第一関門突破。 そう思ったら、深い溜息と共に、全身の力が抜けた。 どうやら緊張は免れていなかったらしい。 俺の様子を見て笑った清四郎に、言ってやった。 「悠理、泣かすなよ?」 今度は清四郎も盛大に瞠目して、それから、神妙な顔で「はい」と言った。 それから。 「分かってると思いますが、野梨子を泣かせたら、許しませんよ?」 答えは一つだ。 「分かってる。大切にする」 全くの本心だが、これもまた自縄自縛。これで無体は出来なくなった。いや、するつもりは端から無いけど。いや、マジで。 *** 野梨子と俺が、二人で、校門を潜る姿は、一大センセーションを巻き起こした。 俺は、野郎共に詰め寄られた。 「どういう事だよ!」「菊正宗君はどうしたんだ?」 意外である事を隠しもしないその態度に少々腹が立ったが、しかしながら優越感からか良い気分であったので、俺は穏やかに言った。 「うん、まあ、そういう事だ。…悪ィな」 それから、釘を刺す。 「余計な手出しは、すんなよ?」 果たして、野梨子宛のラブレターは激減した。 俺の睨みもまだ健在、ってこった。 校門を出て、一つめの角を曲がったら、手を伸ばす。 校内ではきっぱりと無視される手も、ここでならば受け入れられる。 指先に触れる。指を辿る。掌に包む。ぎゅっと握る。 掌から伝わる体温で、互いの手が温まるのと同時に、心も温かく満ちていく。 知り合う前の、子供の頃の話。 知り合ってからの、共に過ごしたあれやこれや。 好きな物の話。仲間の話。 他愛無く、取り留め無く、互いをより知る、色々な話。 手の先で体温の交換をしながら、互いの情報を交換する。 知らなかった事を知り、知っていた事を確認し、知った事を喜ぶ。 穏やかな幸せ。 けれど、それだけじゃ足りないのも、事実。 もっと熱い、体の熱を欲しているのも、事実。 俺の方だけ、なんだろうか。 贅沢な悩みなのは、分かっているけれど。 野梨子の家の前で、手を離す。 指先までも完全に離れた刹那の、切なさ、寂しさ、冷たさ、悲しさ、もどかしさ、…何と形容したら良いのかまだはっきりしない、そういった類いの感情に、打たれる。 ダメージは、日毎に募る。 手だけじゃなく、体ごと全部、抱き締めたい。 満ちる心と萎む心を持て余した、手を繋ぐだけの一ヶ月。 それも今日で終わり。 *** 放課後。 いつもの様に二人で校門を潜り、いつもとは違う進路を取る。 「どこへ行きますの?」 俺はいつもより早いタイミングで野梨子の手を握り、言った。 「家に来ないか? バレンタインのお返しするから」 野梨子はちょっと目を大きくしてから「ええ」と言って微笑んだ。 いくらなんでも、学校や彼女の自宅付近の路上で唇にキス出来る程、俺は厚顔じゃない。頬へのキスでさえ、一瞬触れるだけだった野梨子は尚更だろう。 一瞬触れるだけで済ませる気も無い。ならば尚更。 学校を中心に90度程の角度を開いた先、野梨子の家と同じ程度の距離にある俺の家。 柄にも無く緊張して、掌はじっとりと汗をかいていた。野梨子は変に思ったかも知れない。 庭を突っ切り、吠える男山の頭を一度だけ撫で、離れの俺の部屋に連れ込んだ。 ドアを閉めれば、二人きり。 この部屋で二人きりになったのは、初めてじゃない。でも、恋人として二人きりになるのは、初めてだ。 無体はしない。 それは約束だし、そんな気はさらさら無い。 大切、って気持ちを込めて、野梨子を腕に閉じ込めた。 それから、少し体を離して、野梨子が俺の顔を見るのを待った。 それから、ゆっくりと顔を近付けた。 そっと合わせた唇は、むに、と柔らかかった。 「お返し」 唇を離して、野梨子の目を見て言った。 唇が触れていた間だけ目を瞑っていた野梨子が、俺の目を見つめ返した。 頬を染めた野梨子が、あんまり可愛らしいから。 胸が詰まって、抱き締めるだけしか、出来なかった。 あわよくば、もうちょっと何か、色々出来たら良いと思っていたのに。 触れるだけのキスと抱擁だけで、いっぱいいっぱいになるとは。 抱き締め返してくる野梨子の腕が、こんなにも嬉しい。 悩む事なんて何も無かった。煩悶なんて馬鹿みたいだ。ただ浮かれていれば良かった。 時が来れば、自ずと変わる。焦る事は無い。熟した機を、見逃さなければ良い。 今、野梨子は俺の腕の中に居て、明日も明後日も、手を繋いで下校する。 |
あとがき 悩んだのは、私の方だよ、魅録君。 「ホワイトデーをお楽しみに」なんて言ってくれちゃって、どうしろってんだ。 結果、何とも消化不良なホワイトデーと相成りました。(私的に。無念。) 2012.2.29、3.9-14
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