匂い |
人にはそれぞれ、匂いがある。 例えば。 悠理は、煎餅やらクッキーやらあめ玉やら、とにかく食い物の匂い。幸せな奴だ。 可憐は、香水やら化粧品やら、所謂女の匂い。弛まぬ努力に恐れ入る。ご苦労な事だ。 清四郎と、美童? 男の匂いを嗅いだり、分析したりするシュミは、アリマセン。 そして、野梨子。 異変に気付いたのは、三日前だ。今日も変わらず、その匂いがする。 「煙草なんて、百害有って一利無し、だぜ?」 「咥え煙草で言う科白じゃありませんわね」 そりゃそうだ。が。 野梨子から、煙草の匂いがするなんて。 それも、俺が吸う様な、重たいヤツの。 清潔そうな匂いの子だったのに。 「吸ってんのか?」 俺は、咥えていた煙草を、かくかくと揺らして示す。 紫煙がふらふらと揺れた。 それをじっと見た野梨子は、首を横に振った。 「清州先生は、吸わないよな」 「ええ」 「家元は勿論、お弟子さん達も吸わないよな?」 「勿論」 だったら。 「男か?」 野梨子の目が、丸くなる。 まさかな。 自分で言ってみて、そんな発想をした自分に驚いた。 野梨子に、男? 移り香が他人に分かる程、密着する様な付き合いの? そんな訳ないだろ。あって堪るか。 と、思ったが。 目の前の野梨子の顔が、みるみる赤くなる。 まじかよ…。 呆然として、危うく煙草を落とす所だった。 *** 「男か?」 どうしてそれを。 まさか、魅録が気付くとは思わなかった。 自分の煙草の匂いで、麻痺しているだろうと思っていた。 放置された煙草の箱から、一本、失敬したのは五日前の事だ。 どうしてそんな事をしたのか、考えたくはなかった。 ハンカチで包んで、鞄に仕舞った。 家に帰ってハンカチをそっと開くと、魅録の匂いがした。 いけない事をしているようで、動悸を感じた。 実際、泥棒なのだから、間違いなくいけない事だ。 しかしその頃には、既にそれが動悸の原因ではない事は、分かってしまっていた。 魅録の、匂い。それが、原因。 そっと咥えてみてから、ハンカチに包み直し、枕元に置いて寝た。 魅録に包まれて眠る様で、動悸と幸せを感じた。 起きている時も、髪を揺らせば魅録がそこに居る様で、やはり動悸と幸せを感じた。 ふわふわと浮遊する様な気分が続いた五日目だったのに。 選りに選って本人に露呈するとは。 どうして良いか分からなくて、涙が迫り上がって来た。 *** 野梨子が、瞳に涙を溜めている。 何なんだ、一体。 俺は、激しく動揺している。 「辛い恋、してんのか?」 そんな風に言ってしまって、更に動揺した。 野梨子の瞳から、涙が零れて、また動揺。 つい、自分の親指の腹で、野梨子の頬の涙を拭ってしまった。 他の男を思って泣く野梨子に触れたって、辛いだけなのに。 少し身を固くした野梨子は、俺を見つめながら、後から後から涙を流した。 拭っても拭ってもキリが無いから、俺は野梨子の頬を撫で回してしまっている。 まずいな。 このままじゃ、頬を両手で包み込んで、唇で、涙を掬い取りたくなってしまう。 そんなの、野梨子が困るだけだ。他の男を思って泣く、野梨子を。 困ってしまえ。 俺は、煙草を灰皿に押し付けて、予想通りの動きをした。 他の男を思って泣く野梨子なんて、困ってしまえば良い。 野梨子が、息を呑んだ。 頬に、目尻に、唇を付ける。 どうしてこいつは、されるがままなんだ。 踏み込んじまうだろ。 もう、限界。 「何か言えよ」 *** 魅録が何をしているのか、そして、それは何を思ってなのか、考えようとする度に、顔に魅録の唇が触れて思考が分断される。 ・魅録は私が辛い恋をしていると思っている。 ・魅録は私の涙をどうにかしようとしている。 ・魅録はとても傷付いた顔をしている。 ・魅録はとても辛そうにしている。 ・魅録はどこまで分かっているのだろう。 一向にまとまらない。 私は、どうすれば良いの? 唇の熱を一際長く、熱く感じたすぐ後、魅録が言った。 「何か言えよ」 「これが、辛い恋かどうかは、魅録次第ですわ」 何も考えられずにいたのに、口をついて出たと思えばこれだ。 *** どうして、野梨子の恋が『俺次第』なんだ? 野梨子の恋に、俺が関係してるのか? 関係してるのか。 どういう風に? ………。 考えられるのは、一つ。だったら、俺が言える事も一つ。 「自惚れていいなら、辛い恋な訳がない」 野梨子の瞳をじっと見ると、野梨子の瞳は、揺れた。 そして、野梨子が俺の胸に飛び込んで来た。 俺の背に、野梨子の腕が回される。 ぎゅうと抱き締められた。 何だよ。 「自惚れるぞ」 「自惚れじゃありませんわ」 「…そうか」 「…ええ」 抱き締め合ったままで暫く居た。 「ごめんなさい、魅録の煙草を、一本、勝手に頂きましたの。それで…」 野梨子は、ぽつりぽつりと、事の真相を話してくれた。 俺の、煙草の匂いだったのか。 随分と、可愛らしい事をする。 野梨子の匂いは、俺の匂い。 そう思えば、頬が弛む。 でもなあ。 野梨子には、もっと良い匂いをさせていて欲しい。 「嗅ぎたくなったら、いつでも嗅がせてやるから」 腕の力を一層強める。 「いつでも、こうして良いんですの?」 「望む所だ。だからもう、煙草なんて側に置くなよ?」 俺が側に居るんだ。それで良いだろう? |
あとがき 『男の匂いを嗅いだり、分析したりするシュミは、アリマセン。』 って一文を書きたいが為の物だったのに。野梨子は泥棒しちゃうし、泣き出しちゃうし。どことなく変態臭いし。一向にまとまらないったら。 女の匂いを嗅ぐシュミのある魅録って、イヤよねぇ…。たまたま嗅ぎとれちゃっただけ、って事で…。 ちなみに、清四郎は薬、美童は花、だと思います。 |
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